2016年04月22日

玉砕119

2月14日、黎明時、硫黄島発進の、艦偵彩雲は、輸送船170隻からなる大船団が、サイパン島の西方80浬の地点を北西に航行中であることを、発見した。

この報告に、小笠原兵団は、ただちに、戦闘準備を下令。

16日、米機動部隊は、延べ1400機にのぼる艦載機をもって、関東・東海各地を襲った。

一方、本土来襲と平行して、護衛空母12隻を基幹とする、機動部隊が同日早朝、硫黄島海域に進出、同島を包囲するようにして、艦砲射撃を開始した。

18日、水際陣地および、飛行場破壊のため、大規模な艦砲射撃を加えた。

米軍は、19日午前より、戦艦7隻、重巡4隻、軽巡1隻、駆逐艦10隻、砲艦9隻の艦砲射撃と、空母6隻の甲板から、発進する艦載機の援護を受けつつ、島の正面三キロにわたり、上陸用舟艇無慮500隻で、上陸を開始した。

午前10時30分頃には、上陸兵力は、約一万、戦車100以上に達した。

日本軍守備隊は、この米軍の猛爆撃を冒し、水際陣地の部隊と砲兵火力をもって、果敢に応戦する。

しかし、絶対優勢な米軍の火力に圧倒され、水際陣地は、次第に沈黙させられる。

20日には、日本側命名の、千鳥飛行場を失い、全島を南北に分断された。

21日には、米軍は、更に大型輸送船30隻による、後続兵団の揚陸を開始した。
22日夕刻、米軍第一線は、南波止場から元山飛行場南側、千鳥部落に至る線に達し、その進出度は、二キロにおよび、橋頭堡を成した。

2月23日から3月3日にわたり、中央地区陣地地帯において、彼我の必死の攻防が続いた。

26日頃には、主陣地地帯を侵され、大阪山方面の陣地を失い、元山、屏風山において、双方決死の、争奪戦が反復された。

21日まで、艦砲射撃が継続され、更に、飛行機と戦車の猛撃を受けて、23日に至るまで、高地をめぐる戦闘は続いたが、日本軍は、ついに力尽きた。

同日、10時20分頃、擂鉢山山頂に、星条旗が翻った。

硫黄島全島が見渡せる地形を、占領されたことは、精神的、戦術的に、元山方面の日本軍主力の戦闘に、大きな影響を及ぼすことになった。

しかし、米軍側から見ると、これから先が、大変だったのである。
寸土を争う、激戦が連日、繰り広げられた。

栗林兵団長は、硫黄島を東西南北と、擂鉢山の五つの地区に分けて、北地区に、その主力を配置していたからである。

仔細なことは、省略する。

玉名山上にあった、千田旅団長は、栗林兵団長から、玉砕攻撃は、思いとどまるべしとの、指示を受けていたが、海軍陸戦隊司令井上左馬二大佐と共に、残存兵力800名で、最後の総攻撃を決意した。

日の丸の鉢巻に、地下足袋、巻脚絆という身なりの千田少将は、命令を下達した後、集まった部隊長クラスの者と、コップ一杯の水で乾杯し、
皆さん、長いことご苦労をかけました。靖国神社で会いましょう
と、低く重い口調で言った。

米第四海兵師団が、苦戦している間にも、第三および、第五海兵指弾は、次第に、栗林兵団主力を、島の北部に追い詰めた。

3月13日、ついに、天山地区が落ちたことにより、北拠点左地区、つまり北部落東側の、防備が手薄となった。

14日から15日にかけて、米軍は、拠点の左側背に迂回浸透して、露出していた海軍第二十七航空戦隊司令部のある洞窟の、東方約100メートルまで迫った。
米軍は、戦車による火炎放射器、ナパーム弾等を、集中した。

また、洞窟の上に乗り、空気孔から、爆破攻撃を加え、坑道攻撃を採り始めた。

日本軍の損害は、増大した。

第二十七航空戦隊司令官市丸利之助少将以下、海軍司令部は、栗林兵団司令部洞窟に、合流し、北拠点方面の戦況は、いよいよ最期の時を迎えようとしていた。

残存兵力は、約900名、うち海軍、約200名である。

3月16日、深夜、栗林兵団長は、決別電報を、大本営参謀総長宛に、打電した。

今や弾丸尽き水枯れ全員反撃し最後の敢闘を行わんとするにあたり、つらつら皇恩を思い粉骨砕身もまた悔いぬ。特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるを思い至りたとい魂魄となるとも誓って皇軍のけんど重来の魁たらんことを期す。ここに最後の関頭に立ち重ねて衷情を披瀝すると共にひたすら皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永へに御別れ申上ぐ・・・
読みやすいように、書き改めた。

米側資料によれば、3月26日未明から、栗林兵団長の総攻撃は、万歳攻撃ではなく、火器も備えたある程度組織立ったものだった。

戦闘は、三時間に及び、米軍側にも、死傷者が出た。

この戦争を通じて、最大の激戦地となった、硫黄島戦は、終息した。
当然、米軍も、多量の犠牲を伴った。
上陸軍と、艦艇乗務員合わせて、約6000名が戦死、負傷者は、約一万八千名に上った。

米軍は、当初、占領するまでの期間を、五日間と計算していた。それが、一ヶ月を擁したのである。
この戦闘で使われた爆弾等は、先例を見ない大量なものだった。

日本軍、守備隊、陸軍、5万5500名
    海軍 7500名

中には、俘虜となった者がいるが・・・
六万名以上の玉砕である。



posted by 天山 at 05:34| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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