2015年09月14日

玉砕67

やがて船から汽車に乗り換え、3月7日、ラングーンに到着した。そこで弾薬、糧食を受領し、いよいよインパールかと覚悟をきめ、遺書を書いた。年老いた祖父母の身を案じつつ、強大に後半を託し、仲良く助け合って暮らすように書きしるした。これで最後とは書かなかったが、弟が二人もあり、万が一戦死しても心配ないと思う。

状況は急変した。インパール作戦に参加するための追及は中止となり、3月7日、即日、出動命令を現地でうけた。ただちに出発準備だし全員が緊張する。
敵は3月5日、マンダレー・ミイトキーナ線の要塞、カーサ付近に空挺部隊を降下させたので、第一中隊は軍直轄となり、緊急湯送によって攻撃に向うことになった。われわれはこれを空挺部隊討伐と称していた。ウィンゲート空挺部隊討伐の「九号作戦」である。

わが軍はインパール作戦の開始時で、攻撃部隊がなく、各方面から少数の兵力が向けられた。このような状況のため、一中隊は休む間もなく列車に乗り込んだ。敵の制空権下にあり、敵機の襲撃をうけて退避と乗車を繰り返し、寸断された鉄道を自動車に乗り継ぎ、インドウを目指し前進した。

この、マンダレーは、ビルマの中心部に位置する。
イワラジ河を720キロほどさかのぼったところにあり、ビルマ第二の都市で、最後の王朝があった場所として、有名である。
最近は、中国などからの、様々な物資、資本が流れ込んで、急激に近代化が進む。

更に、街自体も、広がっている。

この、マンダレーでは、日本軍と連合軍の、激しい戦闘が、繰り広げられた。
幅70メートルの掘りによって囲まれた王宮も、市街戦により、大半が炎上した。
現在は、修復され、観光の名所となっている。

その、イワラジ河にかかる、アパ鉄橋は、マンダレーの郊外と、イワラジ河対岸の、サガインを結ぶ鉄橋である。
サガインは、北部の激戦地に至る鉄道と道路、双方の起点となった場所である。
アパの鉄橋は、軍事上極めて重要な橋である。

戦時中は、イギリス軍に爆破され、日本軍は、最後まで修復することが出来ず、物資の運搬に、大変苦しんだのである。

マンダレーにつくと宿舎に入り、中隊梱包のほか戦闘用以外のいっさいの私物などをまとめた。日の丸の寄せ書き、千人針、操典類、預金通帳、軍隊手帳にいたるまで梱包し、戦友の遺骨もそこにおいて荷物監視の兵が残った。
薄暮れ前、われわれは宿舎を後にして、王城の外濠を右に見て行軍の途についた。濠の水面にうかぶ睡蓮や城壁が、どこまでも長くつづき美しかった。
アパの鉄橋はなかほどがV字型で破壊され、下流から工兵隊による門橋でサガインに渡った。すでに数少ない機関車が待機しており、小用するひまさえないくらいである。前線にちかづくほど鉄道は破壊されているが、トラック部隊との連携は敏速円滑で、たった一個中隊の移動にしては待遇がよすぎた。

ラングーンを出発しから二日目に、インドウ付近に到着した中隊は、ただちに鉄道警備隊の救出に赴いた。そこでわれわれが乗り込んだのは、軽列車と呼ばれている、二両編制のガソリンカーだった。・・・

われわれは明早朝、方面軍参謀の北沢少佐とともに、自動車でモールの敵地まで行くことになった。昼間の敵機の襲撃は確実だから、何台か運のない車はやられると覚悟した。

夜が明けると道路両面の山林内で偽装をほどこし、そのまま乗車を待っていた。太陽が高くなり、敵機の危険は倍増した。

とつぜん、爆音がわれわれに向ってくるのを予感し、全員、道路をはなれ山林内へ走りこんだ。爆音がグワーンとくるなり、ドンパーンと撃ってきた。みんな太い木の反対側にまわって盾にした。

いままで戦闘機は機関銃だったのに、敵は機関砲か速射砲も装備しているようだ。薬莢の太いのが木の枝にあたり、カランカラ、ドバーンと私の目の前に落ちた。

敵の激しい攻撃に晒されたようである。
文面だけでは、想像がつかない。
この場所が、激戦の場所となったということ。

現在、サガインの街の山の頂には、多くの慰霊碑がある。
ビルマ、マンダレー付近は、慰霊の巡礼地である。

やがて敵機は銃撃いっぽうに変り、執拗に攻撃を繰り返した。そのたびに、バシッバシッバシッと枝が折れて、バサッと頭の上に落ちてくる。右から左からと休む間がない。ダダダダダー、ビシビシッ、ブスッブスッと、地面の山土が草といっしょに飛び、グワーンと爆音が遅れて頭上を飛び去る。終わりかと思うと、また来て撃たれる。ずいぶん長い時間に感じたが、やがて機銃弾を撃ちつくしたのか敵機はいなくなった。
頭上の敵機はさったが、周辺は爆音が絶えることがない。このときの襲撃で、木村芳郎兵長が大腿部貫通の負傷で後退した。

3月12日、われわれは空挺部隊攻撃隊長の長橋中佐の指揮下に入り、17日の夜、モール陣地攻撃に参加した。第一中隊は陽動作戦をとり、菊十八師団の一隊が攻撃したが、成功しなかった。3月21日も菊部隊が攻撃したが、犠牲者を多くしただけであった。
わが中隊はおもに夜間、敵陣地の正面・左右両翼と周囲をまわったが、兵には徹底した説明はなく、ただ移動し歩きつづけた。モール攻撃準備行軍中の十六日は夜半、敵地雷のために大串守上等兵が戦死した。

3月26日、第一中隊池田小隊が、モールの敵前数百メートルの捜索拠点に出ていったが、翌27日の夜明けに、敵の急襲をうけ全滅にひとしい損害をだした。

次第に、日本軍の不利な状態が続いてゆく。
当初の勢いは無い。
つまり、英軍が、相当の覚悟を持って、戦闘を始めたということ。

「どうした!」
顔面は硝煙のためか黒ずんで、襦袢がやぶれている。恐怖と緊張のため、声がかすれる。
「池田小隊全滅だ」
「よく来たな、後は」
「みんなやられた」
「そうか、治療してもらえ」
だれかほかにも帰ってこないかと、手に汗して待った。
「来たっ、二人だ。迎えに出ろ!」
一人が負傷した隊員を支えながら歩いてきた。駆け出していき、交代しながら、
「後はどうした」
「どうなったかわからない。全滅だ」
「不意討ちで、手榴弾を投げ込まれ、自動小銃と機関銃で一斉射撃をくらったんだ」
「歩哨が発見できなかったのか」
「歩哨がさきに撃たれて、小隊はぜんぶ低いところに入っていたんだ」
歩哨以外は眠ってしまったのだろうか。一瞬の奇襲をうけて、池田小隊長以下多数の死傷者を出し、二小隊は壊滅してしまった。
これまでともに励まし、慰めたすけあってきた同年兵、戦友、初年兵を一度に失い、呆然とした。負傷して動けない身体に、とどめの銃撃をうけた戦友もあったろうと悲嘆にくれ、涙が出た。

夜も昼も、上空に敵機が見えないときはない。どの方向へ移動しても、頭に敵機の帽子をかぶって歩くようだ。

敗戦に向っているとは、知らずに、命を落とす。
散華する。
玉砕である。



posted by 天山 at 06:13| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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