2015年08月03日

玉砕54

ニューギニア大密林に死す
前人未踏の熱帯雨林六百キロの撤退路
植松 仁作

大正7年、兵庫県に生まれる。
昭和14年12月、旧制室蘭高等専門学校在学中に、広島の電信第2連隊入隊。
北支派遣軍電信第10連隊を経て、15年12月、陸軍通信学校へ幹部候補生として入校。
16年11月、少尉任官、南方総軍司令部通信班長として、サイゴン、シンガポールに赴任。18年9月、陸軍中尉。
11月より、電信第24連隊本部付として、西部ニューギニアを転戦。
終戦時、陸軍大尉。

最初の部分を、少し長いが、引用する。

ここは西部ニューギニア、ヘールビンク湾にあるヌンホル島で、戦前は教会だったこの家も、今は寺子屋で、今日も原住民の子供たちが大勢集まって「いぬ」「いえ」と日本語の勉強がはじまっている。次ぎは私の出番だ。昨日教えた軍歌のおさらいをするので、子供たちと一緒に土間に腰をおろしていた。なにしろ子供たちを集めるのが大変で、タオルをやったり、飯を喰わしたりで、授業料は先生のこちら持ちになっている。

その代わり、勉強が終わればこちらのもので、後は農園に出て働いてもらう。原住民たちは、自分に必要なだけしか作らないのだから、こうでもしないと私たちの口には野菜一本さえ当らないのである。
ところで、いざ私が先生という時、一人の原住民が息をきりながら駆け込んできた。
「大変だ、モシモシトアン」
原住民の身振りはただ事でない、何かあったらしい。

今、この島には、森中佐を守備隊長にして約二千の兵がおり、私はその中の通信隊を指揮している。私の隊はここから海上80キロのマノクワリから派遣されている。そこでヌンホル通信隊長の私を、原住民たちはモシモシトアン、電話の旦那と呼んでいる。

原住民の知らせで私は大急ぎで帰った。兵舎の前に、衛生兵と他にも三人ばかりいる。
「さては急病人か」
いや皆今日の炊事当番だし、忙しそうにその用意をしている。すると原住民は、私の手を引いて、彼らのそばに置いてあるバケツを指した。中には十匹以上もの鰻が入っていた。
「なんだ鰻じゃないか」
と思いながら中へ手を入れようとして驚いた。数匹が首をあげ、私の指先をねらって飛びついてきた。海蛇だ。原住民の様子がどうもおかしいと思った。

ここにはコブラのような猛毒の蛇はいないが、まむしなら日本より多い。原住民はまむしを見てさえ逃げるのだから、海蛇を手づかみにして来たのには、びっくり仰天で、私を呼びに来たのだろう。原住民は絶対喰わないものだ。
それにしても、よくもこんなに沢山とってきたものだ。
「誰だ、あんなもの獲ってきたのは。喰えるのか」
「吉野が鰻だと思って獲ったらしいけど、指を二、三ヶ所咬まれている」
今日の炊事当番は潮干狩りで、夕食にはそのご馳走とのことだった。

現地の様子が、実によく分る描写である。

吉野兵長は一ヶ月ほど前、マノクワリから連絡に来たが、乗っていた船は沈められ帰れずにいる。そのためかこの頃では様子がどうもおかしい。だが゛変なのは、なにも彼だけではない。毎日やって来る敵の爆撃で、私たちの神経はすっかり鋭くなっている。
昨日の爆撃の時も、防空壕へ逃げる間のなかった一人が、井戸へ飛び込み、引き上げるのに一騒ぎしたところだ。今の私たちは皆、多少おかしくなっている。

ところで、この日、夕食の箸をとろうとしていると、今度は兵隊が、
「隊長、緊急電報だ」
と飛び込んできた。発信地はホーランジャ飛行場からで、
「敵、航空部隊来襲、被害甚大、貴地に向け退避中、収容の準備を乞う」
宛は、各地飛行場中隊長になっている。
「すぐ飛行場へ電話してやれ、ホーランジャがひどく叩かれている」
私も次ぎの電報を待つため通信所へ走ったが、次ぎに入った「敵機延べ数千機」の電報をみて、愕然とした。少なくとも数百機の波状攻撃を受けているのだ。

この頃は豪雨つづきで、西部ニューギニアの数十の飛行場は、ホーランジャ地区を除いて、ほとんど使えなくなっていた。折も折、後方からは、東部ニューギニアの戦勢挽回をねらって次々に航空部隊が到着して、それがほとんどホーランジャ地区に集結している。

これを知った敵の大空襲だったが、このためホーランジャの空は敵機で蔽われ、終結の航空部隊は二百十数機の損害を受けてしまった。昭和19年4月上旬のことだった。

ところで、この大空襲のため、ニューギニア方面の航空戦力の差は、一層大きくなってしまった。もう制空権は完全に敵のもので、輸送船は次々に沈められ、船舶部隊は舟艇だけになり、地上部隊も勿論各地に孤立で、連絡はただ電波によるだけになってしまった。

その上、敵は各個爆破の戦法で次々にニューギニアの各地に上陸してきた。このため、西部ニューギニアに布陣の我々第二軍、勢部隊も四月下旬にホーランジャを失い、五月にワクデ、サルミ、ビヤクに敵の上陸を受け、六月にはとうとう私のヌンホル島にも敵を迎えてしまった。

ここで、私は、ビアク島以外の、島があることを、この戦記で知った。
この、ヌンホル島は、ビアク島の南西に位置する、小さな島である。

さて、次ぎに敵の狙う所は恐らくマノクワリだろう。このマノクワリには第二軍司令部がいるのだから、敵も用心して、ニューギニア最大の火力を打ちこむに違いない。
マノクワリの兵力は二万余、決して少ないものではなかった。しかしその大半は兵器、貨物、船舶部隊などの後方部隊で、主戦闘部隊は第三十五師団の一部だけだった。

これでは装備のすぐれた敵に、とても対抗できるものではない。その上、マノクワリの食糧は、もう三ヶ月分ぐらいしかなかった。このため、軍司令官は、とうとう兵力移動を決心し、マノクワリの兵力の半分、一万二千に、マノクワリの南方六百キロの地、イドレへ転進を命じた。
これは昭和19年7月1日だった。

ここでも、輸送船舶への攻撃を受けて、物資が無いという、状況が分る。

昭和19年の後半の日本軍は、撤退、敗走の連続となる。
米軍の物量には、敵わないのである。

この悲劇の、西部ニューギニアの戦いは、あまり語られることがない。
現在の、インドネシア領、イリヤンジシャに当る。

島から陸に移動して、更に、撤退を続ける日本軍に、米軍、連合軍は、痛烈な攻撃を加えてくるのである。

武器、食糧も足りなく、もう、戦闘状態とは、言い難い。
だが、翌年の敗戦、つまり、八月までの間、この日本軍の敗走が続くのである。







posted by 天山 at 06:09| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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