2015年07月17日

玉砕48

昭和18年は、徐々に、日本軍が劣勢になってゆく。
その大きな原因は、輸送船の沈没である。
つまり、物資が届かないという、状況になるのである。

連日ウエワクとハンサ間で人員、隊貨の輸送に当っていた数隻の海トラも次第に撃沈され、私がハンサにいた時、その最後の一隻が湾内で米軍機の爆撃によって沈没するのを見た。その他にも輸送に大活躍をしていた漁船が、ウリンガンという所に退避中を集中的に襲撃され、大発、小発併せて数十隻が爆沈された。さらにマダン地区では米軍の魚雷艇の活躍が盛んになり、これによる大発、小発の被害も甚大となって、マダンへの前進はますます困難となっていった。

私たちがハンサ滞在中に、たまたまマダンへ緊急に輸送しなければならぬ部隊があるからというので、私たちはその大発から降ろされ、ここからマダンまでを徒歩で行軍しなければならなくなった。背嚢に何日分かの糧食を背負って、東京から沼津までの間を、米軍の航空機と海上からの魚雷艇の攻撃を避けながら、とぼとぼと歩くのである。途中で、激戦を終えてきた第二十師団や第五十一師団の傷病兵が、最小限の荷物を背負って、ぼろぼろの服に素足に近い格好で杖にすがりながら退いて来るのにしばしば出合った。

兵士たちは、まだ若者たちである。
それが、杖をついて・・・
裸足に近い格好・・・
これが、日本兵の格好である。

そういう描写が延々と続く、戦記である。

誰いうとなくこの道路を、東海道ならぬマダン街道と呼ぶようになっていた。昼間は米軍機が道路に沿って低空で飛んでくるので用心しないと歩けない。ことに集落の付近は銃撃ばかりではなく爆撃もするので絶対に避けなければならない。川で水浴中の兵隊が飛行機に見つけられて銃撃でやられることもあった。夜は夜で、なにしろ道路が海岸に沿っているので、岬のかげや、渡河点等にひそんで待っている魚雷艇の突然の猛射にやられることもある。だから真っ暗な晩でも灯火は絶対に禁物なのだ。ある憲兵が一休みして煙草に火をつけようとして、ふいに魚雷艇の射撃にあうという例もあった。

これでは、すでに敗戦である。
戦争ではない。
敗走である。

マダンに到着するまでの、状況も悲惨である。
そして、マダンに到着してからも・・・

そこでは、戦争に参加している。つまり、死ぬと、意識していることだ。
どのように死ぬか・・・
栄養失調、病気で死ぬなら・・・どうせ死ぬなら、と考えている。

マダンにおける生活も決してよくはなかった。宿舎は、じめじめしたジャングルの中に建てられ、米軍機は朝は五時半頃からわがもの顔に頭上を跳梁していて、仕事をしている途中、たびたび防空壕へ入らねばならなかった。したがって炊事も夜間だけに限られ、いつも夕食は夜の八時半か九時頃、それもどろどろの雑炊で、飯盒の蓋にやっと七分目か八分目の量である。朝と昼食は前夜に炊いたご飯に冷たい汁、暑くて湿っぽいせいで昼食の時には少し味が変わってしまうし、分量も少量であり、仕事をしていてももたないので、爆撃の合間を見ては少し離れた所にある椰子林に行って、椰子の果実やその新芽をとってきて食べたものだった。

上記は、まだマシな方である。
そのうちに、それも、出来なくなる。

そのうちに、米軍に後方との連絡を絶たれた第二十、第五十一両師団の者が、山中を迂回して原住民の農園の芋を食べながら、相当数の行き倒れやら、渡河中の溺死者やらを残して、服もぼろぼろになってマダンへ辿りついてきた。これらの者に対しては、米の定量を増やしてその体力の回復をはかったのであるが、芋から米に変わったとたんに、多くの胃腸病患者が発生した。あまりに米のご飯がおいしくて、つい食べ過ぎてしまうのだということであった。

戦死ではなく、行き倒れ、溺死である。
それは、戦場のあらゆる場所で起こったことである。
更に、餓死である。

戦う力の無い兵士を、また、前進させざるを得無いという、日本軍である。

ニューギニアでは、行ったり来たりと、兵士たちは、さ迷うのである。

事実、ホルランジャまでは、わが第十八軍の作戦地域内であるのに、そこには後方部隊のみをおき、その有する三個師団の主力全部をマダン以東に持っていたのである。そうした危惧が大となったので、群は転進の疲れもまだ癒えていない第二十、第五十一の両師団を、マダンで休養せしめる暇もなく、ウエワク地区へと前進せしめることにした。それも、連合軍側は艦船や舟艇などを使用して海路を楽々と前進するのに反して、こちらときたら一部の兵器類等は僅か残存していた少数の大発、小発によって、夜間魚雷艇の脅威にさらされながら運ばれたが、その他は例のごとく、背中に世帯道具一切を背負って、杖をたよりに夜間に歩き、昼間はジャングルに寝るという方法で進むのであるから、これでは問題にならない。
舟艇で僅か二、三日の行程でも、半月から一ヶ月くらいはかかるのである。

本当に、話しにならない状態である。
大本営は、その事実を知っていたのだろうか。

何事も、現実を見ることなく、云々する者たちがいるが・・・
また、現地を見ることなく、云々する者も・・・

激戦地に追悼慰霊に出掛ける私は、その現場を見ている。
そのジャングルの様。
自然の厳しい、状態。

ニューギニアの東部海岸線には、まだ出掛けていないが、南洋の激戦地は、理解出来る。
この、ニューギニアの最後の舞台となった、ビアク島に出掛けてみて、本当に、厳格な自然の様を、目の当たりにした。

兎に角、食べ物が無いと言う悲劇は、言葉に出来ないのである。

その後、この戦記も、また、マダンからウエワクへと戻る。
ニューギニア東部を、行き来する様である。

行けども行けども追いつかず、日は暮れそうになるし、水の便はなし、疲れ果ててどうしようかと思っている時、やっと水のあるところに出た。その時、日も暮れたのでここで野宿しようと座り込んでしまった。当番兵が、この上に灯が見えるようだから行ってみる、といって出ていったが、すぐに戻って来て、司令部がこの上で野宿していると報告したので、やっと這うようにして司令部に辿りついた。だが、三輪少尉は、すでに疲れ果ててしまっていたため、司令部の位置までの距離を歩く元気もなく、ついにそこで野宿してしまった。

久しぶりに会う戦友の何と懐かしいことか。みんなに労わられつつ、夕食をともにして、お互いの苦労を語り合った。彼らの話によると、セピックの湿地帯通過の時は、渡河点は敵機の銃爆撃を受け、やっと渡河してもそれから先も大変な湿地で、時には胸まで浸し、背嚢の中の米が濡れて、カビが生えてしまうし、病人はつぎつぎに倒れ、死体はそのまま湿地に呑まれる、部隊はその上を行軍してくるという悲惨な状況である。渡河点出発時の人員と渡河後における人員の差が何千人というほどだったというのである。

これは、何も、ニューギニアだけに言えることではない。
ビルマの、街道も、白骨街道、靖国街道と言われたほど、兵士の死体が横たわっていたのである。


posted by 天山 at 06:24| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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