2015年07月01日

玉砕43

引き続き、八木さんの、手記を紹介する。

ラバウルというと、南洋の小さな島のように思っている人が意外に多いが、パプアニューギニアの東、赤道から南へ五度ほど下がったあたりに、東北から南西へかけて500キロの長さで横たわっているニューブリテン島の東北にある街の名称である。海峡を隔ててその東側から北にかけては、ニューアイルランド島という島があり、向き合ったこの二つの島には英本国の名がつけられてある。第一次大戦まではドイツ領だったので、今でもこのへんの島々を総称してビスマルク諸島という名が残っている。ニューブリテン島の大きさは日本で言えば九州くらいに相当し、さしずめラバウルは、北九州市あたりに位置しているということになる。

昭和18年、1943年も暮れ近くになると戦局はとみに緊迫してきて、ニューブリテン島の各所にも米壕軍が上陸してきた。海峡を挟んでニューギニア島と対するツルブ地区あるいはマーカス岬など、九州にたとえれば、鹿児島や宮崎、熊本さらには大分あたりに相当する地点が激しい地上戦の場と化した。
そしてこれらの地域の日本軍は、兵力、火力、食糧すべての点で圧倒的に優勢な米壕軍の前に、一部は玉砕したが、生き残った者はラバウルへ向けて撤退することになった。遠いところで500キロ、近いところでも200キロの道のりを一ヶ月から三ヶ月かかって引揚げてきたが、文字とおり死の行進だったようである。
飢餓、病魔、豪雨による川の氾濫、鰐、泥濘の道など、それらによって途中脱落した兵士の数は何千とも言われ、屍は累々とし酸鼻をきわめたという。

そして、生き残った者も、ラバウルにて、玉砕するのである。
今は、美しいビーチの広がるラバウル・・・
70年前に、そんな悲劇があったとは、思えない場所になっている。

救いは、現地の人たちの、日本に対する思いである。
実に、親日なのである。
私が出掛けた年は、パプアニューギニア建国30年の年だった。
その、祝いの壁絵には、日の丸が、描かれていた。

象徴的な現地の人の言葉・・・
日本人は、すべてを与えてくれた。白人たちは、ただ、奪うばかりだった。

私がこの病棟に移されてからどのくらいたったころかははっきり覚えていないが、ある日、数名の兵士が衛生兵にともなわれて病棟に現れた。まとっている軍衣はボロボロで泥にまみれ、履いている靴や地下足袋は底が剥がれ縄で縛ってあった。枯れ木のような体の腹部だけが異常に膨らんでいたが、マラリアにやられ栄養失調にさいなまれながら、かろうじてたどりついた兵士たちの悲惨な姿だった。

着いた兵士たちは食べるものを欲しがった。軍医の指示で、植物は体が回復するまでは少しずつしか与えないことになっていたが、皆、衛生兵の目を盗んでは何かを食べ、食べた翌日には必ず死んでいった。哀れなことにすでに食物を消化する力さえもなくしてしまっていたのだろう。しかし、それでもここまでたどりついて、たとえ一口でも口に入れることができた者は幸せだったというべきなのかもしれない。

死んだ兵士たちは、病棟のはるか下の谷間に掘られた大きな穴に次々と放り込まれていった。やっとの思いで死の行進を生き抜いてきた兵士たちなのに、たどりついた先もやはり死の穴でしかなかった。

玉砕である。

未だに、英霊の遺骨は、114万柱が、日本に帰っていない、現状である。
つまり、それらの兵士たちの、ご遺骨が、そのままであること。
更に、自然に同化してしまった、兵士たちの、ご遺骨である。

後から後からと出る死者を埋める穴が足りない。そのためには一人用の穴ではなく、二メートルぐらいの赤い穴を掘り、いっぱいになるまで投げ込むのである。次から次へと必要とする穴を掘るには衛生兵の手だけでは足りなかったし、むしろ常時患者を作業要員としていたと言ったほうが実態に近かった。

八木さんは、ようやく、中隊に戻り、ココポに近い、南飛行場で、戦闘に加わるが・・・

食糧・衣類など軍中枢からの補充は皆無となり、中隊手持ちの量はわずかであったが、貴重な備蓄として手をつけてはならないことになっていた。兵士たちは日常生活のすべてにわたって自活するための工夫が要求された。たとえば靴などは戦闘訓練の場合は別として、日常はめいめいが椰子の実を裂いた線維で草鞋を作り、それを代わりとした。草履を履くための足袋も作ったが、それには古い天幕地を利用した。なかには針まで作り出す器用な者もいた。

これでは、戦争に勝つことは出来ないだろう。
それらの記述を読むと、呆然とするのである。

昭和20年、1945年、八月、戦争は終わった。日本は敗れた。しかし我々には敗れたということがどういうことなのか、日本が、国自体がどうなっているのか、それがまったくわからなかった。わかりようもなかった。祖国は遠い。一体これからどうなるのか、何もかもわからなかった。最初は終わったということさえよくわからなかった。

ただはっきりした違いは音の世界が一変したということだった。毎日聞く定期便のような爆撃機のエンジンの音、爆弾が空を切って落ちてくる音、戦闘機のけたたましい急降下の音、そして狂ったような機関銃の発射音、そうしたすべての音がぱったりとなくなった。

見上げる椰子の葉の間にのぞく青空は昨日のものとは変っていないが、その空から一切の音が消え、森閑とした静けさだけが残った。その静けさに戦争は本当に終わったんだなという実感があった。

日本兵士たちの、行為と行動は、悲惨だったが・・・
その後、八木さんは、敗戦後の日本を見回して、書く。

戦場という有無を言わさぬ場に身を置き、運命を共有する集団の中で命を賭す以外に途のなかった苦しみ、その苦しみを抱いて戦った若者たちの心の在りようは、後世の論者の憶測の域をはるかに超えている。

私が「無念」としか言い表せないこれら死んだ若者たちの心の傷跡は、あとから「殉国」というようなひとかけらの賛辞でたたえられようが、あたかも当時であったかのような「反戦」という歴史批判の言葉の中で悼まれようが、けっして消え去ることはないし、そんな騒々しい意味づけをしてもらっても喜ぶはずがないと思っている。

一緒に戦場にあった者としては、ただただ「死なせないでやりたかった」と思うばかりで、言ってやれる言葉は何一つもない。生きていてこそ人生だったと思うし、生きる自由を失い、自分ではどうしようもなかったたった一つの人生の喪失に対して、何をどういってやったところで慰めにはならないと思っているからだ。

「死なせないでやりたかった」ということがかなわなかった以上、生き残った者としては、せめて静かに眠ってくれと願うだけである。

戦争を知らない世代の人たちには、こうして死んでいった当時の若者たちの「無念さ」を踏みつけ踏み固めた歴史の上に今日の平和が築かれ、それぞれが貴重な生をうけているのだというだけは知っていてもらいたいと思う。

以上。

ほんの一部を抜き出してみたが・・・
私が言えば、戦争で死んだ若者たちに対して、ただ、追悼慰霊があるのみだと、思う。

追悼とは、追って悼む、つまり、その歴史である。
そして、慰霊とは、この今、生きる命の、尊厳の重さである。

慰霊をすることによって、戦争に対する、反対を行為するのである。
つまり、平和運動である。
それは、極めて、個人的なものである。
何者にも、それを止める権利は無い。






posted by 天山 at 06:25| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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