2015年06月25日

玉砕40

「い」号作戦とは、空母部隊の搭載機を南東方面の各基地に揚げ、従来の基地航空部隊をあわせて、山本五十六司令長官が、みずからラバウルに進出して、指揮をとり、ソロモン諸島、ニューギニア方面の連合国兵力を爆破するという、航空決戦の総称である。

この作戦は、大本営とは、関わりなく、連合艦隊が独自に実施したものである。

日本軍の航空勢力が、減少するばかりであり、連合軍側は、当時ソロモン方面、ニューギニア方面に、一ヶ月約50機から、100機の補充がなされていた。

ダンピール海峡以南の、ニューギニア、ニュージョージア島の南のソロモン諸島は、いずれも、連合軍機が、我が物顔に、飛び回り、南東方面の制空権は、ラバウル、マダンなどの後方要地を除いて、すでに、連合軍側のものとなっていた。

更に、航空兵力だけではなく、海上兵力も、北上の兆しを見せていた。

日本軍にとっては、潜水艦、艦艇による、輸送が、無くてはならない手段になっていたが、その最も手ごわい敵である、魚雷艇が、サラモア付近にまで、出没するようになっていた。

当時、大本営陸海軍部は、ソロモン、ニューギニア方面に対する積極性を失ってはいず、連合艦隊としては、立場上も、座して敵の出方を待っているわけには、いかなかった。

「い」号作戦の計画は、当初第一撃は、4月1日、X攻撃を、ガダルカナル島方面に、加えることとなっていたが、ソロモン方面の天候不良により、7日に延期された。

しかし、米軍は、事前にブイン基地における日本軍機の、異常な増加に気づいていて、見張所がキャッチし、ただちに、邀撃の態勢がとられていたのである。

その計画は、第四回まで、行われたが・・・
4月14日、東部ニューギニア方面の艦船を目標とした、第三艦隊の飛行機隊による、第三次Y2攻撃が企画されたが、早朝の偵察機が、付近に船影なし、と報告したため、あっさりと、中止になった。

山本五十六が戦死したのは、その後である。

結論を言えば、作戦を実施することにより、その航空機のあまりの損耗の激しさに、驚き、中止したということである。

すでに、日本軍は、衰退に向っていた。

その、「い」号作戦の仔細なことが、未だに、良くわからないという。

その頃から、中央に対して、故意に、被害を過小に見積もり、虚偽を報告し始めているということである。

ちなみに、山本五十六は、戦争全体の敗北を、明確に、予想したであろうということである。
攻撃を受けて、墜落したことになっているが・・・
それが、自殺であったという、見方も出来ると言う。

だが、それには、深入りしない。

さて、大本営が、アッツ島に、敵上陸の第一報を受けたのは、昭和18年5月12日であった。

大本営陸軍部は、アッツ島に対する逆上陸を企画し、海軍部も、千島の基地航空部隊をもって、支援し、当時、トラック諸島の戦艦武蔵上にあった、新連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、いったん機動部隊を北上させようとした。
陸軍は、落下傘による、挺身上陸も考えた。

アッツ島には、守備隊として、陸軍約2500名と、海軍約1000名がいた。

攻撃に来た米軍は、日本軍の約10倍の兵力である。
最初は、キスカを第一の時揚陸目標にしていた。
米軍の勢力圏内に近いキスカである。
防備が、手薄で、攻略しやすいという、理由から、三月に入り、急遽アッツ島上陸が決定した。

日本の連合艦隊は、南方方面で、対応しきれなくなっていたゆえに、北方へまわす兵力の余裕はなかった。

千島の基地から、中攻による二回の襲撃と、潜水艦による、アッツ近海の敵艦艇に対する攻撃が、唯一の反撃だった。

根本的な解決には、逆上陸しかないのである。

アッツ島上の山崎部隊からは、刻々と切迫している戦況報告が打電されてきたが、大本営は、手をつかねて、沈黙するしかなかった。
そして、5月18日に、アッツ島の放棄が、内定した。

5月20日、御前会議にて、
西部アリューシャン列島の確保は断念して、両島の守備隊は撤収し、北東の第一線を千島列島、樺太、北海道の線まで後退させる
という、議案が採決された。

そして、5月29日、ついに決別の電報が届いた。
何と、守備隊は、この最後の時点で、150名になっていたのである。

玉砕、という言葉が、初めて使用されたのである。

アッツ島を捨てたが、玉砕という言葉により、名誉を与えたといえる。

だが、アッツ島の放棄で、北方における海上決戦は、取り止めになったものの、キスカ島所在人員の撤収は、ケ壕作戦と呼ばれて、にわかに、クローズアップされた。

キスカ島にあった人員兵力は、昭和18年6月5日の状況で、陸軍約2500名と、海軍約3400名だった。

キスカ周辺は、敵の制空権下にあり、海上は、艦艇、潜水艦で封鎖されている。
日本軍の作戦は、戦闘ではなく、人員の救出である。
したがって、空と海を問わず、発見されたら、万事休すである。

霧という、自然現象に託すしかないという、状態であった。
これ以上は、省略するが・・・
結果的に、作戦は成功する。
7月22日、第二次ケ壕作戦は、第一次と同じ艦隊編制で、出航し、25日を突入予定日と決めていたが、27日までは、キスカ周辺は快晴続きということで、この間、キスカ島南方海上約300浬付近の霧に隠れ、機会を狙っていた。

28日、濃霧が立ち込め、広がるのを知り、水雷戦隊は、突入を決意した。
29日午前7時、木村昌福少将は、キスカ湾に向かい、陸上の通信隊の発する電波を頼りに、驀進を開始した。

昭和18年の敗戦続きの、南太平洋にあって、キスカの救出作戦の成功は、かすかな光であった。

その8月、米軍は、キスカ島に対して、二週間に渡り、猛撃を加えた。
そして、15日、3万5000名もの大軍を上陸させたが、霧の中で出会ったのは、犬三匹という。






posted by 天山 at 05:48| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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