2015年05月18日

玉砕29

ビルマ戦線を見る。

ビルマ戦線を、二期に分けると、第一期は、南部ビルマの飛行基地の占領と、ラングーン、現在のヤンゴンの、攻略である。

そして、第二期は、更に北へと進攻の輪を広げて、イギリス増援部隊と、中国重慶軍を撃破して、ビルマ全域を占領することである。

だが、大本営にあっては、ビルマ作戦に関して、明確な方針があったわけではない。
開戦前、南方作戦の総合的な、計画を検討した際には、作戦の右翼はタイに留めて、ビルマは、攻略の範囲に入っていなかった。

その後、次第に積極姿勢に転じていった。
それは、当面は、蒋介石率いる軍に対する、支援ルートと、イギリス軍と中国軍合同の拠点と見られていた、ラングーン占領であった。

昭和13年、広東、武漢があいついで日本軍に落ちると、蒋介石は、四川省の重慶に、その政府を移した。
重慶に後退した蒋介石政権は、その後、列強の軍事援助を得て、徹底抗戦を呼号した。

中国、蒋介石軍に対する、列強の援助により、日中戦は、終わりの無いものになった。
何故、援助をしたのか・・・
列強の中国における、植民地政策と、その利権を担保するためである。

11月6日、大本営は、南方攻略作戦の具体化のため、従来の第二十五軍の編制を解き、新たに、南方軍として、第十四、第十五、第十六、第二十五軍、南海支隊の編制を、令した。

その他の、細かなことは省くが、インドシナ山系を実際に、踏破した部隊の苦労は、並大抵ではなかった。

タイ、バンコクから、ビルマへのルートをそれぞれに進軍する日本軍である。

タイとビルマ国境地帯の、山脈一帯は、トラが出没するといわれる、密林に隈なく覆われていた。

当時のビルマにおける、英国軍の兵力は、歩兵、砲兵を基幹とする、兵員約四万人で、モールメイン地区、東部シャン州、ラングーン付近、マンダレー地区に、重点的に配備されていた。

数多くの悲劇があるが、中でも、シッタン河における戦闘は、大変な被害を出した。
敵味方共に、目の前の河に飛び込んで、そのまま濁流に呑まれ去った者も多数いたのである。

だが、日本軍は、勝ち続ける。

ラングーンの無血占領は、昭和17年、フィリピンからタイに転進した、第五飛行集団が、ラグーン方面の爆撃を開始した。

3月6日、第三十三師団が、シッタン河の渡河後、三日間にわたる強行軍により、ラングーンに前進中、ラングーン方向に突進すべき、との軍命令を受けた。
それぞれの隊が、ラングーンを目指す。

その途中でも、敵に遭遇するが・・・
結果、敵はラングーン市街から、退却するのである。

ビルマ戦線では、インパール作戦が有名だが・・・
それ以前に、進攻の有様がある。
そして、ビルマ戦線、インパール作戦からの撤退における、地獄の有様が起こるのである。

さて、次に、MO作戦、モレスビー作戦を見る。

連合艦隊の主力が、陸軍と共同して、フィリピン、マレー半島、蘭印、つまりインドネシア方面の攻略作戦を進めていた時期、南洋部隊は、陸軍南海支援の協力を得て、別途太平洋正面の作戦を、推進していた。

珊瑚海海戦とも言う、モレスビー作戦は、日本軍の作戦を阻止した、連合軍の機動部隊と、常夏の美しい珊瑚海において起こった、空母同士の戦闘である。

モレスビー作戦は、ツラギ、ポートモレスビー、ナウル、オーシャン攻略作戦の、略称である。

第一作戦が終わり、第二段作戦は、ニューギニア東部のポートモレスビー攻略を中心とするものである。

昭和17年、1942年の一月頃から、計画していたものだ。

開戦前は、第一段作戦で手一杯だったが、海軍は、開戦前から、大陸である、オーストラリアの存在を気にしていた。

そこは、連合軍艦隊の基地となるだけではなく、アメリカ本土で生産される、航空機、潜水艦が展開して、日本軍の占領地の防衛、海上交通が、脅かされるという、懸念である。

ハワイから、オーストラリアに至る、海上交通路の要衝にあたる、サモア、フィジー両諸島と、ニューカレドニア島を攻略する安を示し、陸軍もこれを了承した。

その、外郭作戦としての、MO作戦だった。

しかし、この時、山本連合艦隊司令官長は、大本営の対米戦争観に、興味を示さなかったという。
長期戦の、不敗は、無理とでも思ったのか・・・
独自の作戦構想を貫徹しようとしていた。
それが、ミッドウェー作戦である。

4月10日、連合艦隊司令部より、第二段作戦の兵力部署が、発令された。そして、ポートモレスビー攻略をMO作戦と呼称することに決したのは、当日である。

4月23日、南洋部隊指揮官・第四艦隊司令官井上中将は、ポートモレスビー攻略命令を発した。
概要は、ツラギが、5月3日、ポートモレスビーが、10日、ナウル、オーシャンが、15日である。

実は、連合軍側は、暗号解読という手段で、日本軍の作戦を察知していた。
ただ、攻略の日時までは、特定出来なかった。

その過程は、省略する。
結果的に、戦いは、日米互角であった。

だが、世界戦史上、初の空母対空母の戦闘に相応しく、兵力ほか与えられた彼我の条件は、ほぼ同じである。
その後の、戦闘経過も、ほぼ互角に推移したのである。

そして、日本軍は、東部ニューギニア戦を続けて行く。
ニューギニア戦線として、有名である。

いずれ、そのニューギニア戦線も、地獄の形相となり、飢餓地獄と化し、玉砕するのである。





posted by 天山 at 06:08| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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