自分が、民主的に振舞おうとつとめたため、かえって、軍をつけあがらせることになった。
と、回想している。
しかし、私が言いたいことは、軍部に対しての、国民の支持は、圧倒的だったということだ。
大衆というものを、疎かにできないのである。
天皇の平和希求の願いが、軍部によって、破られたが、国民は、軍部を支持したということを、覚えて欲しい。
そ後も、クーデター騒ぎが、幾つか発生した。
神兵隊事件、三月事件、十月事件・・・・
国内は、騒然としたのである。
だが、世論は、将兵たちを英雄視したということ。
であるから、満州国に対しても、国民は大歓迎したのである。
昭和7年3月、満州国が発足した。
執政には、溥儀を就任させた。元首である。
溥儀とは、清国の最後の皇帝である。
それを世界に、発表した。
中国国民政府は、当然反発する。
そして、国際連盟に、提訴する。
そこで、国際連盟は、リットン調査団を派遣する。
英、米、仏、独、伊の五名からなる。
すでに、侵略していた国も入っているから、笑う。
更に、加えて言うと、米などは、満州の権益を狙っていたのである。
それが、後々で、解ってくる。
その調査報告では、
満州国は、日本の侵略で生まれたが、中国の日本排斥の動きも、そのひとつの原因になっているというものだ。
当然といえば、当然である。
そして、国際連盟は、対日勧告案を42対1、棄権シャム、現在のタイであるが、可決した。
日本は、国際連盟の決定に従えということになる。
日本だけが、反対した。当然だ。
それにより、日本は、国際連盟から、脱退したのである。
昭和8年3月のことである。
脱退を天皇は、承認しなければならない。
それを、詔書を発するという。
その際に、天皇は、次の二点を挿入した。
脱退のやむなきに至ったのは、誠に遺憾であること。
脱退後も国際間の親交と、協調を保つこと。
だが、軍部は、更に、中国本土まで派兵しようとする暴論が出たのである。
天皇は、参謀総長、首相、陸相らに対して、再三、中止を要請したが、出先機関の軍は、従わずである。
天皇に対する崇敬と、軍部に対する支持。
一体、何故、相反することが、起こるのか。
それは、天皇の御心は、公にされないからである。
君臨しても、統治せず、という、大前提に立って、天皇は、渋々と、承認しなければならないのである。
もし、昭和天皇が、親政を行い、平和を求めたなら・・・
きっと、暗殺されたはずだ。
それは、大東亜戦争開戦にも言える。
さて、当時の状況について・・・
世界の政治体制は、第一次世界大戦の戦勝国により、決まっていた。
国際連盟も、平和を訴えていたが、世界の権益は、米英を中心にした国に、分割されている。
それを維持するために、ベルサイユ条約、ワシントン条約、ロンドン海軍軍縮条約などの、国際法上の、補完が行われていた。
日本は、その世界分割には、加わっていない。
更に、アジアは彼らが、思うままである。
海軍軍縮条約では、日本の力が削がれていた。
世界最低最悪の国である、イギリス、そして、準じて、アメリカである。
侵略を欲しいままにしているのである。
植民地がなければ、イギリスの経済は、破綻したのである。
更に、豊かになる為に、植民地を欲する。
日本が唯一、アジアの中で、独立国として存在していた。
ちなみに、タイも、独立国であるが・・・
列強諸国に対する挑戦は、日本のみである。
列強は、世界恐慌以来、自国を中心に、ブロック経済体制を作り、他国との通商には、莫大な関税をかけて、締め出しを図っている。
日本は、満州、朝鮮などの資源を開発して、ブロック経済体制を作り、それに対抗しようとしていた。
ところが、列強は、中国支援という形で、その権益を守ろうとしていた。
そして、日本に対しては、条約違反を持ち出し、非難するという、形である。
それが、以後の日本の開戦へと続く思いになる。
米英は、日本も植民地にしたかったのである。
アジア全域をその手に治めたかった。
現在でも、世界史といえば、欧米の歴史である。
様々な歴史を無視して、西洋史を中心にしている。
冷静に見ても、おかしいのである。
白人主義、更に、白人キリスト教が、最も、おかしいのである。
人種差別も、そこからのものである。
軍部の横暴を言うが、米英の横暴を言わないのは、不公平である。