2015年02月03日

国を愛して何が悪い173

第四に、ここから宗教と芸術との関係が問題にされるのは当然であろう。キリスト教のような激しい二律背反はないが、しかし古来の「神ながら」による鎮魂のしらべと、仏教的思索からくる帰依と、また漢詩文などがいりみだれ、複雑な形相を呈しつつ共存していたわけで、空海はそれらの「相互関係」に直面した。ちょうどこのとき「うた」は衰退し長歌も消滅した。それはどういうことであったか。
亀井

これは、亀井独特の、観察力である。

長歌が生命を失ったことは、根本的には、「神ながら」自体が、大きく変質した。
それは、呪術の力が変容することを言う。
そして、それが、空海の、密教に移動することになると、亀井は言う。

空海は、密教の立場から、言葉の誕生と生成、音声や文字について、新しい意味付けを行なったといえるのである。

それは、相当な、創造的想像力である。

造型能力が信仰の中心課題となったように、造語能力も信仰の中心課題となったということだ。彼の宗教的体験が、いかにして詞的体験であり、その逆もそうであったか。これが空海の秘密だが、宗教と芸術との相交わる接点において彼はどのように対処したか。
亀井

七世紀初頭からの、唐化による激しい、民族変貌期が、頂点に達したようである。
つまり、混沌である。そして、無秩序。
その中で、空海は、その混沌と無秩序の中に身を置き、我が信仰の情熱を燃やす。

密教信仰が、中心だが、空海は、仏教から、はみ出したものをも、包括しようとした。
つまり、それは、野心である。

今までに、培われてきた、日本の伝統と仏教、その密教とに結び付ける作業は、評価に値する。

例えば、言霊の伝統を、密教の中で、音声として、取り入れた。
折衷である。

さて、空海が、帰依したのは、大日如来である。
それは、インドの太陽信仰から発したものである。

光明遍照とも訳される。
それは、宇宙に偏在する大生命の、光源とも言えるもので、仏教が持つ、汎仏論的性格を、空海は、この形で徹底したといえる。

それは、仏の根源である。
そのように、導いた経典が、大日経と、金剛頂経である。
そして、空海が師事した、長安の恵果の出会いである。

それについては、神仏は妄想である、という、別エッセイに詳しく書いているので、省略する。

兎に角、空海は、即身成仏を掲げた。
それに関しては、それぞれの宗教にある、奥義のようなものである。
ただ、精神史に即して言えば、そのような、壮大な試みを行なった人物が、存在したということである。

それを、実現するために、空海は、あらゆる事柄に、関与した。それも、また、才能のなせる業である。

亀井は、
日本史上最初の「普遍的人間」が成立したといってもよい。
と、書く。

自己が成りうるかもしれないあらゆる可能性を、つねに保有しておくこと、大日如来のこれが至上命令なのだ。
亀井

仏教経典には、様々なものがある。
特に、大乗仏教になると、その数は、膨大である。
その中から、どの経典を選ぶか・・・

鎌倉仏教では、それを、選択、せんじゃく、と呼んで、多くの宗派が出来た。
その先駆けを、空海は、成したのである。

そのような、人物が、登場したということが、精神史にインパクトを与える。

それでは、その空海の密教は、当時、どのように受け入れられたのか・・・

受け入れる側からみると、奈良朝の諸宗と本質的な差異はない。国家安泰(鎮護国家)や天災や、個々人の幸不幸に関した、言わば現世利益に即した祈祷効果である。奈良朝において、それがいかに迷信じみたものとなり、頽廃したかを私は指摘し、空海の受け継いだひとつの宗教的課題であることを述べておいた。密教の重要な実践面は祈祷、修法である。
亀井

そして、空海は、新しい呪術の場を、構想したのである。

それが、造型と、言語表現、音声である。
祈祷は、その合致によって、成り立った。
そこに、創意工夫がある。

現代から見ると、それも、迷信の一つとなるが・・・
当時は、真っ当な感覚で、受け入れられるのである。

即身成仏とは、眼にみえるものであり、身体で実感しうるものでなければならなかった。私が仏教享受における第二義の道といった造型能力を、第一義の道たらしめた根源はここにある。「大日経」「金剛頂経」にもとづいて、四種の「まんだら」を説いたのがそれである。
亀井

今で言えば、マジックである。
そのマジックを、空海は、作り上げたのだ。

日本精神史から、見れば、画期的な行為であった。
仏教を、創作したのである。
そして、日本の伝統も、取り入れた。違和感なくである。

空海によって、神々が仏の守りとなり、そして、本地垂迹説というものが、現れる。
それは、本は、仏であり、それが、神の姿になるというもの。

これは、仏教が伝来した、多くの国とは、異なる意識である。
神々と、仏を別物としないという、空海の想像力は、凄まじいものがある。

神仏混合は、その時から、決定的に成ったといえる。


posted by 天山 at 07:07| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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