2015年01月14日

神仏は妄想である。515

四句否定について、見ることにするが・・・
四句否定とは、ナーガールジュナの創作ではなく、初期経典にも、見られたものである。

世尊はその死後に、
存在するとも、存在しないとも、その両者であるとも、両者でないとも、いうことはできない。

ものは自ら生ぜず、他からも生ぜず、自他の両者からも生ぜず、無因からも生じない。

それなら、最初から、言うな・・・
と、言いたくなるが、それが、インドの言葉遊びの特徴と思えば、いい。

研究家も、四句否定は、形式論理の中で理解するのは、困難であると、言う。
当たり前だ。

四句否定の中で、更に一つの例を上げると、
自我があるともいわれ、自我はないとも説かれた。いかなる自我もなく無我もないと諸仏は説いた。

それを解釈する者は、第一句の、自我あり、というのは、バラモン主義者たちの主張を表し、第二句は、他の学派などが、感官の対象のみを是認して、推理の対象を認めず、享楽主義的な立場から自我の存在を否定することを、表し、第四句は、諸仏の教えを表すという。
第三句は、省略しているが・・・

また別の解釈は、業・輪廻を否定する虚無主義者に対しては、自我があると教え、我見にとらわれている者には、自我はないと教え、仏教に深くはいった者に対しては、空性の真理を悟らせるために、自我もなく、無我もないと、仏陀は、教えると、言う。

では、仏陀は、本当にそのようなことを、言うのか・・・
実際の仏陀は、一切、答えなかった。
無視するわけではないが、事細かく議論することは、なかったのである。

つまり、そんなことは、どうでも、いいことだと、知っていた。
それより、大切なことは・・・
と、考えたはずである。

だが、面白いので、見て行く。

すべては真実であり、あるいはまた真実ではない、真実でありかつ真実でない、真実ではないものでもなく真実でもない。これが仏陀の教説である。

第一句は、一般の世俗の、理解としの、真理による教え。
第二句は、最高の真実による教え。
第三句は、その二つの真理を複合した立場からの、教え。
第四句は、ヨーガ行者の神秘的直観の立場を表すという。

解釈する者も、すき者である。

真実ではないものでもなく真実でもない・・・
通常ならば、頭のイカレた人となるが・・・
インドでは、そうではないらしい。

それぞれに、説く相手が異なるのだと、詭弁を使う。

若し、日本の仏教が、こんなところから、始まっていたら・・・
今頃は、仏教など、形もないだろう。

兎に角、堕落し、更に、堕落した、仏教が、大陸、それも、中国と、漢文を持って伝わったのである。
そして、鎌倉時代に、益々、仏教など、何のことは無い、教えになった。

先祖供養などという、馬鹿げた話になっているのが、その証拠である。

先祖に、御伽噺のような、経典を読経して、はい、幾らとの、商売である。

チャンドラキールテイは、人々にブッダの全知性を尊敬させるために、すべては真実だと第一句を説き、変化するもの真実ではなく、真実であるものは変化しないと教えるために、すべては真実ではないと第二句を教え、第三に、ものは凡夫にとっては真実だが、聖者にとっては非実であると第三句を教え、すでに煩悩と誤った見解とからほとんど自由になった人に対して、子を生まない女の子供は白くも黒くもないように、すべての現象は真実でもなく真実でなくもないと第四句を教える、という。
研究家

書き写すのに、間違いそうである。

つまり、四句否定は、それぞれの、区が、それぞれの人に当てられたものと、いうのである。

更に、研究家の、成果を載せることは、困難になるので、省略する。
話が、終わらないから・・・

すべては真実であり
あるいはまた真実ではない
真実でありかつ真実でない
真実ではないものでもなく真実でもない

第三句を書き換えると、
あるものは真実であるものは非実である。
第四句は、
いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない

四句のいずれをも、絶対的なものとしては、否定するのが、四句否定の意味であり、中観の真理である、らしい。

いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない

上記が、最高の真実として、
中観の宗教的真理を示しているから、その限りにおいては否定されるべきものではない。けれどもその真理は第一句のなりたっている議論領域、あるいは第二、第三句と同一の領域において成立しているわけではない。言い換えれば、第四句も第一句ないし第三句のなりたつ諸領域においては否定されるべき性質のものである。
研究家

そのように中観の真理も世間の立場、一般的な論理の領域において真であるとはかぎらない、というところに、仏教者の無執着の精神を見ることができる。
研究家

私には、見えないのである。

「般若経」では、空に執着するものに対しては、空をも空ずる必要のあることが、強調されている。

現在では、辛うじて、このような言葉遊びが、禅に見られる。

研究家は言う。
すべてのものの空を悟った聖者がいま一度常識的な有の世界、一般の世界を回復する、ということも、上記のような四句否定の精神から出てくるものである。

少しは、安堵する。

だが、私は言う。
すべてのものは、悟りである。
いかなるものも、悟りえない。
あるものは悟りで、あるものは非悟である。
いかなるものも悟りではなく、いかなるものも非悟でない。

静けさや 岩にしみいる 蝉の声  芭蕉



posted by 天山 at 06:37| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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