2008年07月13日

アボリジニへの旅 13 平成20年7月

1976年、アボリジニ土地権利NT法、が成立する。

政府は、北部準州、ノーザン・テリトリー全域を、アボリジニの土地権の請求を認める法律を制定した。

この法律は、アボリジニの出自を持つ人を、アボリジニとし、伝統に従い、特定の土地を使用し、占有できる権利をもつアボリジニのために、北部準州が、その土地を貸すというものである。

ここで言うところの、伝統とは、部族、個人の持つ伝承と伝説、儀礼や信仰である。
今も語り継がれる、ドリーミングをもち、ドリーミングに登場する儀式を、行っていることが、条件である。

この法律により、北部準州の、アボリジニは、土地返還請求をはじめた。
現在、二割程度の土地が、アボリジナルランドとして、アボリジニの所有になっている。

このことは、アボリジニたちの、神話の力が、土地を返還する上で、必要不可欠となったことである。私は、画期的なことだと、考える。

それは、この法律によって、他の地域でも、土地返還請求が、出されるようになったからである。
その時、その土地に、まつわる、ドリーミングを語ることができ、聖地などを、正確に伝承していることが必要になる。
神話が、ただの神話に留まらず、かつての、自分たちの土地に関する、権利を主張することの出来る、手立てとなったのである。

この、ドリーミングは、説明するに、実に、難しいことである。
後で、少し、私が出掛けた、ゴーブ付近に住む、ヨォルングたちの、ドリーミングについて、考察するが、文字で、説明することの、限界を、感じるものである。

つまり、アボリジニの知的水準は、恐ろしく高いのである。

土地返還に関しては、また、実に難しい問題がある。
それは、先祖代々、その土地を、所有していたという、証明を、文化人類学的知識をもっても、語ることが必要なことである。

問題は、アボリジニのことを、非アボリジニの人に、理解させるという、とても、大変な作業をしなければならないことだ。

ここで、青山晴美氏の、アボリジニで読むオーストラリア、から、引用する。

このプロセスは、科学的で西洋実証主義的な考え方と方法論により証明されなければなりません。・・・・

アボリジニ文化のように歌や踊りや神話として伝承され、文字ではなく語りとして受け継がれ、目に見えない精神性を重んじてきた文化を、西洋の実証主義によって判断し証明することには根本的に無理があります。アボリジニ自身が文化を分析し裁判所で口頭証言をしても、「白人」の裁判官からは信頼するに足りないとして却下されてしまうことがあります。結果として、本来アボリジニ文化に備わっていない信念や情報が構築される可能性もあります。まさに、アボリジニ文化の意味は、オーストラリア社会の複雑な力関係によってつくりだされているのです。

アボリジニの、あらゆる面を破壊しておいて、今度は、それを、出せという、その勝手都合の良さを何と言うべきか、私は、知らない。

さらに、問題なのは、都市に住む、アボリジニである。
彼らは、おおよそ、混血児である。
白人との、混血を、パートアボリジニとされ、定義されるアボリジニの枠に入らないということになっているのである。

問題は、より複雑化していく。

これ以上になると、非常に専門的知識を、必要としなければならない。

先の、青山晴美氏の、引用をする。

アボリジニ文化の新しい解釈によって、アボリジニであること、すなわちアボリジニ性は、社会的に構築されるものとして理解されるようになってきました。・・・・

人のアイデンティティや文化は、自然発生的で、変容することのない本質的なものだという理解をやめなければならないという意見が、アボリジニ学のヨーロッパ系学者のあいだからだされました。本質主義は、似非科学に裏付けられたレイシズム(人種主義)や、アボリジニ虐殺を容認した政治体制、そしてオーストラリアを含む多くの植民地体制の土台になったともいわれて批判されはじめたのです。

それは、大変に良いことであるが、結局は、それも、ヨーロッパ主導の、考え方である。
それを、待つしかないという、不合理である。

220年に渡る、白人支配、植民地政策の果てに、原住民の、あり方が、問われるという、不幸である。

しかし、後戻りは、出来ない。
更に、オーストラリアは、新しく、進んで行かなければならない。

私が、祈りを捧げた、聖地ガインガルも、まだ、その土地所有が認められていない。
しかし、街は、それを容認して、その聖地の保護を形ばかりでも、行っている。

少しは、アボリジニに対する、敬意があると、感じる。
しかし、その聖地を、その周辺を、生きたアボリジニの所有にすることが、急務である。
その時、私は、一つ考え方ことがある。
それは、他者が、結局的に、その聖地を、聖地として、認識し、そのように扱うことで、所有権の請求に弾みがつくのではないかということだ。

他者とは、私のように、日本から出掛けてきて、アボリジニの聖地に、巡礼するというものである。
それを、既成事実にしてしまう、方法ということもある。
実は、その、付近のヨォルングたちの、ドリーミングは、実に、複雑で、理解困難であることが、解ったのである。

私が出向いた、アーネムランドの、ゴーブは、ノーザンテリトリーの中でも、特殊な地域である。
ヨォルングという、グループの行動範囲は、他のアボリジニより、広い地域になっている。
さらに、幸運なことは、他の地域、アーネムランド以外の、地域は、一般の入植者が入る前に、保護区として、指定されたことにより、南部では、当たり前だった、白人の、暴力、虐殺を経ていないのである。

彼らは、この地域で、20世紀に入る前まで、他との接触を持たずに、数家族単位の集団で、季節ごとに移動し、離合集散を繰り返して、狩猟採取の生活を送ることができたのである。

それは、つまり、複雑な、伝承を維持できたということである。

現在、約五千人のアボリジニが暮らす。

ただ、私が、衣服支援に出掛けた、イルカラという場所は、ゴーブの町から、20分程度の所にあったが、そこが、鉱山開発のために、アボリジニたちが、強制的に、移住させられた場所である。

実は、そのから、土地所有請求の、また、土地権利運動のはじまりの、場所ともなったのである。

この、保護区に入るには、政府からの、許可書が必要である。
それを、受け付ける前段階がある。
それは、アボリジニによる。
私たちの、請求が、即座に受理されたのは、衣服支援という、ボランティア行動だった。
本当は、追悼慰霊の行為が、私には、主なのであるが、それは、中々、理解されない。

日本人でも、理解しないことであるから、あちらの人が、理解しないのは、最もなことである。

私は、先の大戦で、アボリジニの方々も、犠牲になった場所があるという、情報を得て、オーストラリア行きを、決定した。
はっきり言えば、オーストラリアという国には、何の魅力も感じなかった。

私が、行くと、決めたのは、原住民の犠牲者に対して、一体誰が、その追悼慰霊をしたのかということが、問題だった。
ダーウィンには、戦争記念館があり、日本軍に攻撃を受けて、市民が犠牲になったと、大々的に、うたうが、アボリジニの犠牲者には、誰もが、無関心である。
当然であった。
激しい差別を受けていた訳であるから、彼らが、死のうが、生きようが、どうでもいいのである。

無視された存在である。

私は、日本人として、その良心として、アボリジニの犠牲者のために、追悼慰霊の儀を行うべくの行動だった。

そして、それを、調べることで、アボリジニの歴史を、知ることになり、愕然としたのである。

和人が、アイヌ民族にしたこと、それ以上のことが、解った。

そして、今年、オーストラリア政府の、アボリジニに対する、正式謝罪と、六月には、日本政府が、アイヌ民族に対して、先住民族と、認める、国会決議を、行ったという、象徴的、事柄があった。

沖縄への、追悼慰霊の儀を、考えていた時でもあり、それらが、私の中で、結びつき、実に、多くのことを、学ぶことになった。

勿論、それは、私の仕事でもなんでもない。
私の個人的、活動であるから、お金になることもなく、学者ではないから、適当なことを言って、生活の糧を、得ることもない。

ただ、心の命ずるままに、行動を開始した。
そして、今、後戻り出来ないことになっている。

私の、聖地での、祈りと、追悼慰霊の行為は、ヨォルングの人には、何の抵抗もなく受け入れられたのは、彼らの常識にあるからである。

追悼慰霊の儀を終わり、一人のアボリジニの女性が、野中に訊いた言葉が、スピリットは、どうなったのか、という言葉だった。
その通訳を、受けて、私の方が、驚いた。

私が、天に昇ったというと、その女性は、安堵の表情で、頷いた。
とても、印象的だった。

複雑な、ドリーミングのことについて、後で、説明するが、それは、私の理解では、大和心と、同じものだった。

今、目の前にあるものは、先祖の夢である、という、考え方は、私を、絶句させたのである。


posted by 天山 at 17:07| アボリジニへの旅 平成20年7月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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