2008年07月11日

アボリジニへの旅 11 平成20年7月

オーストラリアに、移住した人々は、どのようなことを行ったかである。
その行為は、一言、野蛮である。

アボリジニを、野蛮というが、言う彼らの行為の方が、もっと野蛮である。
土地の奪い合いによる、戦いである。

しかし、アボリジニに対する暴力を、彼らは、正当化する、屁理屈を持っていた。
社会進化論と、偽の科学である。さらに、ダーウィンの、進化論などを利用するもの、等々である。

タスマニアの政府委員会では、野蛮人の生活をほんの少しでも、考慮することは、価値のないことである。
そして、ある牧場主は、アボリジニを殺すことと、野生の犬を殺すことは、同じことである。
アボリジニは、野獣に似ているので、殺すのが適切である。
激しい、人種差別は、先住民から、土地を奪う、実に便利な口実になったのである。

初期の、移住者たちは、人間の中で、最低の知能と文明しか、持たず、獣に近いものとして、残虐行為の限りを尽くした。

白人と、アボリジニとの関係が、二世代目を迎えた、1850年代は、さらに、悲劇的である。

これから、キリスト教の、アボリジニ対する、独善の限りを尽くした、赦されない、行為を、書く。

キリスト教は、アボリジニの精神的破壊を、推し進めたのである。

アボリジニをキリスト教徒にするために、宣教師たちは、教団施設に収容することを、思いつく。
18世紀後半から、19世紀初頭にかけて、欧米では、福音主義運動というものが、起こる。
それが、また、偽善的で、植民地的侵略や、奴隷状態に置かれる、先住民を、悲劇から救い、キリスト教徒のすることだという、独善行為である。

白人の暴力から、救う避難所を与え、アボリジニを異教徒として認識し、その文化を、理解することなく、破壊するという行為である。

最も、悪行は、アボリジニの、儀式、伝承、その精神性を、破壊するという行為である。

この精神は、今も変わらずにある。
一方で、物理物質的支援を続け、一方では、その精神性を、破壊するという行為である。
これほど、不純な行動は、無い。
しかし、知能の低い、キリスト教徒には、それが、解らないのである。
我らは、正しいと、信じている。
これを、手のつけられない者と言う。

キリスト教宣教師の、アホ、バカ、間抜け振りを現すものに、布教に当たり、アボリジニが、キリスト教の恩恵を受けるに値する者か、否かを議論したということである。

呪いの好きな、旧約聖書の中に、ハムの呪いというものがある。
ノアの箱舟の記述にある。
箱舟から出た、ノアの息子たちは、セム、ハム、ヤフェトである。
この三人が、世界の人の大元であると、考える。

ハムには、カナンという息子がいた。

ノアが、葡萄酒を飲んで酔っ払い、天幕の中で、裸で寝ていた。
それを、ハムが、二人の兄弟に告げると、二人の兄弟は、着物を持ち、後ろ向きに歩いて、父の裸を覆う。
二人は、父の裸を見なかった。
それだけである。

酔いから醒めたノアが、言う。
カナンは、呪われよ。
奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ、である。

セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。神がヤフェトの土地を広げ、セムの天幕に住まわせ、カナンはその奴隷となれ。

実に、意味不明であるが、呪いである。

よって、ハムは、アフリカを中心とする、人類の先祖とされ、アボリジニも、アフリカと、結び付けて考えたという、お粗末さである。
黒い肌の人は、罪を犯した報いとして、奴隷となるように、運命づけられているという、ものである。

ハムは、父の裸を見たから、呪われたのか。そして、その息子のカナンに、呪いがかけられるという、不思議である。
カナンを末の息子と、呼んでいる。孫であるが、そう呼ぶのである。

兎も角、19世紀の、宣教師たちは、アボリジニを、キリスト教徒にすること、文明化すること、と、目的を定めた。

アボリジニの文化、言語、儀式等などは、すべて、否定されたのである。

大陸の南半分は、1850年代にヨーロッパ人に、占領されていた。
それから、開拓者たちは、いよいよ、北へと、押し寄せることになる。
それは、アボリジニから、土地を奪い、アボリジニを殺すことだった。

白人の、持ち込んだものは、伝染病と、アルコール、そして、アボリジニ女性に対する、強姦である。
アボリジニの、人口激減の有様である。

1900年代に入ると、アボリジニは、壊滅する、人種と見なされる。

フロッドシャム司祭の言葉。
アボリジニは消えつつある。伝道の仕事は、死に行く人種の枕元で、困難を取り除いてやることだけだ。

ここには、アボリジニは、死ぬ運命であるから、キリスト教徒に改宗させることで、せめて、死後、天国に行くことができるようにと言うのである。

旧約聖書の神が、最も嫌う傲慢さと、偽科学の、考え方である、自民族中心主義、エスノセントリズムというものが、ある。

更に、その傲慢極まりない行為に、拍車をかけたのが、アボリジニ親子の分離政策である。

その前に、再度、アボリジニの、精神文化を言う。

その、世界観は、実に知的レベルの高いものである。
包括的で、全体的であり、関連的である。それは、人間と、他の生命や、自然は、分離しないというもの。
多種多様な、生き物は、すべての自然の有様と、共にある。
人間の有様は、その行為自体に、時間と空間を超えた精神的、宇宙的秩序の表現であるとされる。
それらを、儀式や、歌、儀礼、ドリーミングという方法によって、親から子へと、伝えられる。また、それぞれの、グループ内で、伝えられる。

排他的、キリスト教の考え方とは、雲泥の差がある。
キリスト教では、平和を求められないが、アボリジニの考え方では、平和を、求められるのである。

キリスト教徒が、祈る平和は、自民族の平和であり、異民族、異教徒の平和は、無い。
根本から、違うことが、解る。
しかし、今に至っても、キリスト教徒の頭の程度は、進化しないのである。
これ程、愚かで、野蛮な人種も無いものである。

彼らは、早々に、彼らの妄想する、天国に行くべきであると、私は考える。
または、地球の外で、布教活動をして、堂々と、その、偏狭極まりない、教えというものを、広めるとよい。

私の、慈悲の思想から言えば、
糞して、死ね、というところである。


posted by 天山 at 17:07| アボリジニへの旅 平成20年7月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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