2008年01月01日

トラック島慰霊の旅 1 平成20年1月23日

トラック諸島 慰霊の旅


慰霊の前日から、書くことにする。


朝から、横浜には、雪が降った。それは、十時頃まで、続いた。

しかし、寒さは、いつもより、感じない。それよりも、切なさと、悲しみが、心を覆う。


これは、思い出のせいだろうとか、思った。

札幌から、こちらに、内地に出て、十二年目を、向かえる。

ホームシックであろうか。

だが、雪深い、北海道には、戻りたくないのである。

雪の無い、冬の生活に慣れて、心地よく過ごしている。


何故、悲しいのか、切ないのか。


明日、トラック諸島に向かうのである。

グアムで、乗り返して、翌朝、チューク島に着く。

時間が無いので、すぐに、現地の漁師さんを見つけて、海上慰霊の話をつけなければならない。丸一日のみが、与えられた時間である。

一日のうちに、すべての、追悼慰霊の行為を終えるべく、即座に行動しなければならない。


サイパンの時もそうだが、観光地化された、場所に行くという、趣味も、楽しみも、無い。また、見出さない。

そんな暇は、無い。


確かに、バリ島や、タイのチェンマイに行くと、日常の瑣末な、出来事から離れて、自由な時間が出来る。それは、大変、心地よいものだが、観光地に行き、遊びたいという感覚は無い。


私には、何も魅力がないのである。

旅の目的が無いものは、全く、興味が無い。


トラック諸島も、慰霊の一点のみ。


バリ島で、トラック諸島に出かけたという、一人の女性に、話を聞くことが出来たが、それは、現地の様子であり、ダイビングの観光客が多く、食べ物は、不味いということだけだった。そして、すべて、ドルであるということ。


現地の人の様子は、それでは、解らない。

島には、ホテルが、二つのみ。

別の島には、ホテルのような、宿泊施設があるのだろうが、そんなに、移動している時間はない。


出発前日の、悲しみと、切なさの理由は、ただ、慰霊する人々の声なき声を、感じているのではと、思うようになった。


月末の、支払い等のこともあるが、部屋から出ることさえ、億劫になる。

兎に角、胸が沈むのである。

心が、沈むのである。


戦争で、死ぬということは、何か。


そして、生きるということは、何か。


様々な、思想、哲学等、また、戦争肯定の思想もあり、その理屈も、知るものだが、矢張り、納得出来ないのである。

何故、戦争で、死ぬことになるのか。


誰のために。

彼らは、国のためにと、命を捧げたが、その国とは、誰か。

愛する、家族や恋人、友人、その他、縁する多くの人が住む国、日本のために、死ぬと、心に決めて、死ぬために、出掛けたのである。


それが、私だったらと、考えて、思考停止になる。


国の命令で、戦地に行け、そして、死ねと、言われて、さて、どうするのだろうか。

あまりにも、不本意で、不合理で、滅茶苦茶な、命令である。


徴兵制を言うだけで、侃々諤々の議論が起こる、国、日本である。

それでは、戦争で命を捧げた人を、損した人だと、思うのだろうか。

もう、関係ないのだと、思うのだろうか。


あの、時代に生まれたことが、不幸だったと、その一言で、片付けられる問題だろうか。


口を開けば、戦争反対と、言うが、それでは、その反対するために、何をしているというのだろうか。

世界の状況を、鑑みて言うとは、思えないのである。


湾岸戦争も、イラク戦争も、実際に起こっている。


日本の周辺には、核兵器を持つ国が、取り巻いている。

いずれ、核兵器が、日本に、再投下されると、私が言うのは、根拠がある。

この、今の日本人の、無意識である。


もう、そんなことはないだろうという、おめでたい、信仰である。

世界で、唯一、被爆した日本に、再度あるわけがないだろうと。

違う。

だから、あるのである。

原爆投下されたという、事実がある。

一番、原爆投下しやすい国になっているのである。


経済大国第二位の日本という国は、最も、テロリストたちの、狙いやすい国である。そして、再投下は、世界中を、震撼とさせる。

そして、最大のことは、キリスト教徒、イスラム教徒が、実に、少ない国である。

殺しても、世界を震撼とさせるのが、罪悪感は、少ない。


キリスト教国の中には、多くのイスラム教徒もいる。

同胞を殺す可能性が大きいのである。


それならば、最も適当な国は、日本である。


また、北朝鮮を見ても、アメリカと、取引するための、最後の手段として、日本攻撃がある。核兵器を使用して、その意思を示すことが出来る。

侵略の国、ロシアも、反日の国、中国も、日本を取り巻いている。


その民族性は、野蛮である。

自国民を、平気で殺すことが出来る民族である。それでは、他民族など、物の数ではない。


状況が、揃えば、いつでも、日本攻撃が、できるのである。


その時、国のためと、私は、命を投げ出すことが出来るのか。


そんなことを、考える間もなく、原爆によって、死ぬだろうが、もし、戦う必要があれば、殺される前に、相手を殺すと、銃を持つだろうか。


そんなことを、考えて、私は、トラック諸島の慰霊に向かうために、荷物の準備をする。


散華した、多くの霊位の声を聴くべくの、慰霊である。

死人に口なしという。

死者は、話さないという。

死ねば、終わりで消滅するめと、真顔で、言う者もいる。

それならば、なお、彼らの死は、何だったのか。


私は、散華した霊の声を聴く。

何故生きるのか。

死とは何か。

国を愛するとは、何か。


彼らの、思いを聴くのである。


人間の頭で、捏ね繰り回した、理屈を聞くのではない。

宗教や、哲学や思想の、言葉を聞くのではない。

実際、死を体験した、霊になられた、彼らの話を聞くのである。


私は、トラック諸島の慰霊のための、祝詞を書くことを、しない。

大祓祝詞を唱えるだけである。

私は、祝詞ではなく、話しかけるだろう。


清め祓いをするというのは、その場に留まり、無念の思いに、満ち満ちている霊位を、清め、そして、祓う。

清めは、その、満ち満ちる無念の思いを、浄化させ、祓いは、皇祖皇宗の元に、お戻しするという行為である。


しかし、靖国に行きたい霊位は、靖国に、故郷に戻りたい霊位は、故郷に、母の元に戻りたい霊位は、母の元に、である。

それ、以外の行為は、私には、出来ない。


宗教が言う、供養だの、天国にだの、極楽にだのという、妄想、妄語は、言わない。

供養の意味が違う。

天国や、極楽など、霊界には、無い。

あるという者は、嘘をついているか、勘違いしているのである。


霊界は、霊の世界であり、神も仏も無い。

在る訳が無い。


あると言う者は、人霊が、浮遊する人霊が、思い込んで言うのを、信じるからである。


人生は、後始末が、大切である。

しかし、戦争で、散華した人は、後始末が、出来ずにいる。


篤き思いにて、彼らに、哀悼の意と、追悼の意、慰霊の所作を行うことで、後始末として、貰いたいと思うのである。


彼らは、お隠れになったのであり、消滅したのではない。


イスラムの兵士は、アッラーのために、死ねば、天国にて、二十人の乙女が、待っていて、彼女たちが、世話をするという。

それは、現世の欲望を、来世にて、満足させえるという、実に、勝手なお話である。


それを、信じられるという、実に稚拙な、知能の程度である。


日本の伝統は、自然の中に隠れるとみる。

自然のうちに、あらゆるものが、隠れて在るということを、見抜いていた民族である。


それでは、行くのみである。



posted by 天山 at 16:38| トラック島慰霊の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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