2007年12月04日

バリ島へ 4 平成19年12月

一時間半ほど、飯島さんのお話を伺った。

結局、時刻は、一時を過ぎて、私たちは、お暇した。


私には、次に来る時は、一ヶ月ほどの予定で、来て欲しいと言う。

そうすると、領事館の方でも、それではと、色々と、企画を持ちかけてくるという。

ただ、一ヶ月の滞在となると、中々、難しい。

日本で、赤字コンサートを続ける意味と、意義があるからである。


今、コンサート活動を中止するのは、今までのコンサートの積み重ねを、やや捨てるということになる。

続けることが、何より、現実なのであり、それは、成功なのである。


藤岡宣男のファンの方は、ほとんど、コンサートに来ることはない。藤岡が、いないからであり、まだ、藤岡の歌が聴けないという人もいる。

それはそれで、何の問題も無い。


それでは、何故、続けるのか。

私の性格である。


止めるのは、今すぐにでも、止められる。

だから、止めない。


釣り糸を海に垂らしていなければ、魚は、繋らない。

釣り人は、海を見つめて、何時来るか知れない、魚を待つ。

人生で、待つということが、最高の知的行為であることを、知る人は少ない。


待つ行為こそが、人間の行為なのである。

人生は、また、待つことに、耐えることなのでもある。


さて、私たちは、一度、ホテルに戻った。

そして、休憩することにした。

コンサートまで、休むことにしたのである。

それはまた、飯島さんの、お話が、内容濃く、消化するのに、時間が必要だったこともある。


バリ島の人々の批判も多く聞いた。

それは、ある種、バリ島に旅に来て、楽しんでいた者の気持ちに、水を掛けるようなものでもあった。しかし、それで、バリ島を嫌うということではない。

問題意識である。


文明国の、情報や、物を、そのまま受け入れて、考えることなく、取り入れている様は、ある種、愚かであるが、それを、日本人は、笑えない。同じように、アメリカを取り入れて、このような、国になったのである。


バリ島では、米が三度採れる。三耗作である。

ところが、農薬を撒き散らしているという。

農薬漬けの、米が出来る。

まして、農薬の、散布の分量を知らないというから、恐ろしい。

これは、たった一つの、例である。

以下省略する。


ここで、一つ言う。

日本の旅行会社の、パンフレットのバリ島を見ると、そこには、神々の島、自然豊かな云々と、謳う。


バリ島が、神々の島であるというのは、否定しないが、それならば、日本は、更に、神々の島である。


バリ島には、神もいるが、インド魔界の、神もどきも多い。それが、おおよそ、七割である。

日本にも、インド系の神々が渡り、拝まれているが、三割程度である。

どちらが、神々が多いのかは、一目瞭然である。


神々の島は、日本のことである。


バリ島の、自然は、破壊されて、今に、見る影もなくなる恐れあり。

ゴミ処理がなされていないので、至る所、大変な状態になっている。

精々、一週間程度の滞在では、そんなところを、見る事も無い。


ジゴロに、騙されて、妊娠し、子供を産んで、バリ島に住む日本人女性が、親の資金を得て、店を出して、少しばかり、成功する。

ジゴロにやられる程度の、頭である。

すぐに、その気になり、召使を雇う。

にわか、金持ちになり、日本語や、日本の文化も知らず、バリ島で、その気になって暮らす。良い結果が、現れる訳が無い。

子供は、バイリンガルだが、母語を知らないから、精神的流浪をすることになる。

そこに、何の問題意識も無い。


こみういう、アホな日本人が、バリ島の伝統を、破壊するのは、目に見える。

少しばかりの、金があることが、仇になるのである。


インドは、ヒマラヤ山脈の上空の霊界の支配にある。

そこから、出るモノは、神もどきであり、魔界関与が、凄まじい。

インドを魔界の地というのは、訳がある。

カースト制という、仏陀でさえも、それを、阻止することが出来ず、逆に、仏陀も、取り込まれた程である。

仏陀の平等の思想は、今は、皆無である。


政治が、低いカーストの、才能ある若者を引き上げるべくの、政策を打ち出すと、高位のカーストが、反対運動をするという、魔である。


バリ島にも、カースト制がある。


インドの地には、仏陀の思想は無い。

日本の僧侶が、仏教を打ち立てて、復興しようとしているが、仏教徒は、カースト制に、含まれないほど、地位が低いのである。

南インドの仏教徒は、最低最悪の生活を強いられている。


ヒンドゥーの神々は、魔神である。

到底、真っ当な神経で、対処できる相手ではない。


あの、地下鉄でテロを起こした、新興宗教も、シバ神を主に、祭っていた。

インド魔界は、ロシアにまでも、広がり、その新興宗教も、ロシアにて、大きな支部に発展していたのである。


ただし、バリ島の人々、バリニーズたちは、救いがある。

それは、キリスト教、イスラム教、その他諸々の、布教する宗教観を持たないからだ。


ぎりぎりのところまで、観光客に、聖域に入ることを許し、しかし、信仰を強制しないのである。

日本の神道と同じである。

決して、人に信仰を強制しない。


バリヒンドゥーに、入信するには、こちらから、お願いしなければならない。

そして、それは、簡単である。

本日から、入信しますと言えば、聖域に、入ることが出来る。


バリ人の、信仰の篤さが、理解できる。

人に、教えを説くほど、弱いのである。

人に、教えを説いていなければならないほど、信仰が、不安定なのである。


しかし、バリニーズは、確固たる信仰があるゆえに、教えを説くことはない。

こちらが、尋ねて、はじめて、口を開くのである。


お解りであろうか。

信仰とは、極めて個人的情緒である。

犯しては、いけない、心の世界である。


信者を獲得するための、行為は、単に、その信仰に不安だからである。だから、大勢の人を集めるのである。

そして、金を集める。兎に角、集めることで、安心する。


多ければ多いほど、信仰に安心するという、信仰の薄さと、堕落である。


信仰は、我が内にあり、一人一人に、神がいるということを、知る行為である。

つまり、一人一宗一派になるのである。

百人がいれば、百の神があると、看破するのが、信仰である。


私は、野中と、ホテルの部屋で、徹底議論していた。

野中は、早稲田の東洋哲学科である。般若経を学んでいた。

議論し、問い詰めていた。


勿論、早稲田大学での、東洋哲学、さらに、宗教であるから、程度が知れる。

真っ当な学者など、一人もいない。職業学者が、精々である。

信仰を知らず、宗教を講義するというから、仰天する。


ましてや、霊感が無いのであるから、何も知らないのと、同じである。


更に、日本の宗教というものがあればの話だが、欧米の宗教学を持って、分析しているのであれば、終っている。

西洋の神学は、ギリシャ哲学の亜流である。

それを、本流として、すべての学問が始まっている。

元が、亜流である。そこから出たもので、真っ当なものなのない。

宗教学も然り。


野中は、結局、神道に、感動して、日本古来の信仰に、目覚めた。

ただ今、私とは、別な角度で、日本の伝統信仰を、追及している。


疲れたので、私は少しベッドで、休むことにした。


コンサートで、歌い、踊るのである。

その前に、疲れては、台無しである。




posted by 天山 at 16:32| バリ島へ 平成19年12月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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