2014年12月24日

霊学191

思考の働きがなければ、心像の勝手気儘な跳梁と混乱した魂の働きとが生じるだけである。それは或る種の人たちにとって快いことかもしれない。しかしそれと高次の世界への参入とは何の関係もない。
シュタイナー

さらに、高次の世界へ真に参入するときにのみ、純粋な霊界の諸体験が現れる、という事実を考える人は、この問題が別の面をもっていることをも理解するのであろう。
シュタイナー

「見者」はその生活が絶対に健康でなければならない。ところが真の思考以上にこの健康をよく管理してくれるものはないのである。
シュタイナー

上記は、当然のことである。

高次の霊的能力開発のための修行には、思考を土台として、その上に立つ、思考できる人にならなければいけないのだ。
つまり、思考の健全化である。
が、果たして、シュタイナーの思考というものが、健康か、否かは、誰が判断するのか。

この前提は、人間の魂と、霊だけに当て嵌まる・・・
魂と、霊の、健康は、真の思考からということ。

霊学的思考世界を、信、不信に係わりなく、ただ受け容れようとする態度だけが高次の感覚を開くための前提となるのである。
シュタイナー

その、霊学的思考世界を、この、認識の小道、が説こうとしているのだろう。

私のいうことを信じなくてもよいが、それについて考え、それを君自身の思考内容にして見給え。そうするだけで、すでに君の内部で私の思考内容が生きはじめ、君はその真実を自分で認識するようになるだろう。
シュタイナー

これは、師匠が言う言葉だという。

君は、その真実を・・・
何とも、漠然としている。

そして、
それは人間生活や人間外の世界が開示するものに、偏見を排して、ひたむきに帰依することである。
シュタイナー
と、言うのである。

つまり、逢う人、皆、師だけではなく、逢うものの、すべての世界が・・・ということか。

偏見を排して・・・
果たして、人間が、偏見を排して、物事を見ることが、出来るのか。
甚だ、疑問である。

人間は、生まれてから、すでに、様々な、偏見を持つことを、強いられる。
その生まれ、環境、教育、そして、様々な、対応である。

一体、何を持っての、偏見なのか・・・
宗教というものを、一つ取り上げても、その態度は、偏見に満ちているはずである。

自分を消し去るときにだけ、他のものが彼の内に流れ込む。自分を無にして、対象への帰依を高度に所有することだけが、いたるところで人間をとりまいている高次の霊的諸現実を受け容れさせる。人は自分自身だけで、この目標に向ってこの能力を意識的に育成することができる。
シュタイナー

能力を意識的に育成することができる・・・
この、能力とは、真の思考世界への認識か・・・

自分を無にして・・・
果たして、そんなことが、出来るだろうか。
そして、自分を、無にするとは、何か、である。

自分を、空虚にすることか・・・
自分の思考世界を、無にして、帰依することか・・・

この、帰依という言葉にも、問題がある。

シュタイナーの著作は、注意深く生きるために、と私は考えている。

あるいは、何か判断を下したくなるような状況にあるとき、判断するのを我慢して、とらわれず印象に心をゆだねるのである。
シュタイナー

それは、理解する。
印象に、心を委ねる・・・
それは、芸術などに接した際に、特に、顕著に起こることである。
それを、すべての事象に、当て嵌めることか・・・

事物や出来事が、自分に語りかけてくるようにすべきである。そうしてこのことを自分の思考の世界にまで拡げる。自分の中に何らかの思考内容を作り出そうとする働きを抑え、もっぱら外部のものに思考内容を作り出させる。
シュタイナー

実に、注意深い行為である。

それは、日本では、内観、内省といわれる、所作である。
それにより、自分が何によって、生かされて、生きているのかを、知ることになる。
それは、何も、霊的能力でも何でもない。

果たして、シュタイナーの言う、霊的能力とは・・・
日本では、当たり前のことなのかもしれない。

事物に対する、注意力である。
それを、高次の世界云々とは・・・

違う。
当たり前の行為なのである。

今まで、シュタイナーは、散々に、語り尽くしてきた。
そして、今、また、それを語り尽くそうとしている。

シュタイナー学であり、霊学とは、別物であるかもしれない。
勿論、シュタイナーが、それを、霊学ということを、否定するものではない。




posted by 天山 at 06:13| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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