2014年12月15日

国を愛して何が悪い167

九世紀後半から十二世紀にかけて、宮廷の女性から歌や物語や日記が続出したことは周知のとおりである。いわゆる「女房文学」は平安期の一大特色だが、そのすべてに、ひらがなが用いられたことは、日本語の形成に、女性の性格のいかに深くまとわりついているかを示すものである。
亀井

これは、一種の古代回帰ともいえる。
つまり、母系、母性の時代である。

神託を受ける者も、女性である。
その長い年月を過ごして来た。

縄文期も、矢張り、母系と母性の時代と言っていい。

実際、ひらがなの成立によって、女性性が開花したと言える。
だが、男性からは、ひらがなは、女の文字として、認識されていた。

一種の、軽蔑を伴ったのも、事実である。

しかし、ひらがなは、残った。というより、ひらがなに取り込まれたのである。

土佐日記の冒頭、男もすなる日記というものを・・・と、ある。
男が書くという日記を、女が書いてみるというのだ。

そして、更に、漢文を主体とする、僧の文学にも、影響して行く。
平安末期に現れる、隠者、半僧半俗は、ある点では、女房文学の代行者とも言われている。

それは、仏教の信仰自体にも、微妙な影響を与えた。

だが、付け加えておくと、女房たちは、漢学の素養もあり、仏教にも、心を傾けたのだ。

女房文学では、代表格の紫式部などは、漢籍に深く、中宮である祥子に、それを教えたと言う。

平安期という、平安安泰で、男には退屈に思える時代に、女たちは、とんでもない、遺産を作り上げていたのである。
ここでいう、男たちとは、貴族、朝廷の内に存在した男たちである。
その頃の、武家は、その門番を勤めていた。

日本の歌、つまり、鎮魂と、仏教の信仰、つまり、帰依との、激しい対決が見られないが、平安期には、一つの精神の主題が形成される。
それは、歌における、快楽としての、色好みである。
そして、仏教信仰の求道心と、その淡いに生じた、微妙な動揺と、その美化である。

生と性を大胆野放図に歌った「初期万葉びと」の時代から、やかで天平時代となり、歌が個人性を帯びるにつれて、色好みは美意識となり、また一種の翳りを帯びてくる。この翳りは旅人の讃酒歌にもみられるように、世間虚仮という仏教的情感が入ってきたために生じたものである。
亀井

この、翳りこそ、仏教のもたらした、大きなものであると、私は言う。
そして、その翳りが、哲学となり、思想と成り立って行く。
仏教が、それだけ、体系付けられたものだったからであろう。

物思い・・・
物思う・・・ということを、仏教は、伝えた。

換言すれば「色好み」は次第に空虚感を伴ったわけで、家持歌集の後期になると、それが求道(仏教信仰)の思いに接続してくる。・・・
しかし鎮魂と帰依の二元性は、色好みの快楽と仏道を求める心、そのあわいの「たゆたひ」といったかたちに変化しつつ、これが平安期に受け継がれて行くわけである。女房文学(とくに源氏物語)はその集大成であり、大伴家持は先駆者と言ってよい。
亀井

源氏物語は、もののあはれ、以前の、たゆたひの、文学であったといえる。

そして、そこに、ひらがなの持つ、曖昧微妙な感性が、生きてくるのである。

亀井も、ひらがなについて・・・
色好みにおける情緒や陰翳の表現にとって、言語革命は同時に感情革命である。漢字の崩し、その草化あるいは連綿体なしに、平安期の色好みの歌も物語も、おそらく特色を発揮しえなかったであろう。
と、言う。

その深さにおいて、
それは仏教信仰をめぐる僧家の動機を、ひらがなによる色好みの表現のうちに内包するような作用をもたらした。そして快楽と求道のあわいに生じた「たゆたひ」は一種の戦慄を伴い、やがて祈祷と頽廃のうちにさまよう「あはれ」の情感を形成してゆくのである。
亀井

そして、仏教信仰の、草化現象である。

「あはれ」をこのように、定義した亀井である。

このことに関しては、別エッセイ、もののあわれについて、を参照ください。

ここでいう「あはれ」の定義は、平安期に限る場合である。
「あはれ」の心象風景は、万葉を辿り、縄文期に至ると、私は考えている。
ただし、言葉としてのものではなく、感性として、である。

「あはれ」が、後に、慈しみ、或いは、慈悲の心に結び付いてゆくが・・・
その原型は、恋心である。

恋が叶っても、あはれ、失恋しても、あはれ、なのである。

日本の文化の底流にあるもの、それは、「たゆたひ」と「あはれ」と言うしか術が無い。

そのために、様々な技芸が生まれた。
言葉で語り得ないことを、姿で表したと言える。

言挙げせず、という日本の伝統がある。
言葉にせずという、姿勢である。

沈黙の間にあるものを、見つめた民族である。

沈黙とは、沈思黙考である。
そこから、歌が生まれた。
歌は、そのまま言霊となり、生きたものとなったのである。


posted by 天山 at 07:27| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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