2014年12月04日

神仏は妄想である。511

相互依存の誤謬は無限遡及の誤謬から派生してくるものである。アビダルマ哲学でも、生(本性)が生生を、生生が第三の、いわば生の生を根拠として要求する。というかたちの無限遡及をさけるために、生は生生を生じ、生生が生を生ずる、という相互作用を説いていた。
研究家

生生はただ本性を生ぜしめ、また本性は生生を生ぜしめる。
ナーガールジュナ

どこかで止めなければ、止まらない・・・
ホント、呆れる話。

相互作用について、
君にとってもし生生は本性を生ぜしめるものであるならば、本性によってまだ生じさせられていないそれ(生生)がどうしてその(本性)を生ぜしめるであろうか。
君にとって、もし本性によって生ぜられたその(生生)が本性を生じさせるならば、その(本性)によって生じさせられていない本性がどうしてかの(生生)を生じさせるのか。

相互依存は、AがBを生じ、BがAを生ずる。または、AがBを根拠づけ、BがAを根拠づける関係である。これは論理的には循環論証にほかならない誤謬である。
研究家

誤謬・・・
突き詰めて行けば、何事も、誤謬に突き当たるのである。

そこで、私は言う。
人間は、不合理で、非理論、利己的である。
それが、人間である。
その、人間を突き詰めて語れば、どこかで、破綻する。

破綻しないものは、化け物なのである。

理詰めで、追い込めるという、やり口である。
それを、破邪を撃つという。

人間が、完全になろうと、努力惨憺している様を見る。

私は言う。
だから、人間は、不合理、非理論、利己的である。
それでも、気にすることなく、人を愛すること。

認識とその対象の問題について・・・
ニヤーヤ学派の知識論に対する、ナーガールジュナの批判を見る。

ニヤーヤ学派では、確実な認識の方法として、知覚・推理・証言・比定の四種類を認めたうえで、ものが存在するということはこれらのうちの一つの認識によって証明されるという。
研究家

それに対して、ナーガールジュナの批判である。

もしあれこれの対象が、認識によって確立されるとするならば、その認識は何によって確立されるのか、と問う。

自分は、主張を持たないという、ルジュナさんの、やり口が解るというもの。
最初に、論を打ち出せば、やられる。だから、相手の論を出させて、やり込める。

もし一つの認識が他の認識によって成立させられるとすれば、第二の認識は第三を、第三の認識は第四を、というかたちで無限遡及に陥り、最終的な根拠はついに得られない。したがって最初の認識も、その対象の存在も確立されないわけである。しかし、もし認識は他の認識を必要としないで自立的に確実であるというならば、一般にものは認識によって確立されるというニヤーヤ学派の主張は破られてしまう。
研究家

もし認識は他の認識を必要としないで自立的に確実であるというならば・・・
破綻した理論として、ルジュナさんが、論破した。

もし火のように認識が自ら成立するならば、それは対象を持たないで成立することになる。
とすれば、その認識はいかなるものの認識でもありえない。

また、認識は必ず対象をもつ、というニヤーヤ学派や説一切有部の区別の哲学は破綻してしまう。
研究家

それと反対に、認識が対象に依って成立するならば、対象は認識より先に存在しているわけだから、対象は認識によらないで成立する、といわねばならない。
研究家

それでは認識が対象を成立させるとはいえなくなってしまう。

一方、認識が必ず対象によって成立するというならば、対象は成立させるもので、認識は成立させられるものとなってしまう。それでは、はじめに、対象は認識によって成立させられる、といった関係が逆転してしまうわけである。

そして、ナーガールジュナの結論である。

また君にとって、認識の成立によって認識の対象が成立し、同時に、認識の対象の成立によって認識が成立するのであれば、その両者とも成立しないことになる。すなわち、もし、認識の対象は認識によって成立し、また認識は対象によって成立させられるものだとすれば、認識はどうして(対象を)成立させようか。

もし認識が対象によって成立し、また対象は認識によって成立させられるのだとすれば、対象はどうして(認識を)成立させようか。

論に対する、論破である。

大乗仏教の八宗の祖といわれる、竜樹である。
竜樹菩薩と呼ばれる。

日本で言われる、菩薩のイメージに遠い存在である。
ちなみに、菩薩とは、衆生を涅槃に導く働きをする。

仏との、仲介役・・・
阿羅漢とは、小乗仏教の言い方である。

二つのものの相互依存という関係は、結局、その二つのいずれをも自主的に存在させないという、結論である。

それは、因果関係の批判において、同一性と別異性による、ディレンマが、ナーガールジュナの武器であったように・・・
と、研究家は言う。

相互作用の批判においては、自己作用の否定、無限遡及、相互依存の指摘が、武器となっている。とのこと。

好きな人は、好きになるであろう、議論であるが・・・
私は、嫌いだ。

仏に至るまで、こんなことを、延々としていると、思えば・・・
仏にならなくても、いいと、思えるのである。



posted by 天山 at 07:18| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。