2014年12月03日

神仏は妄想である。510

本体が自己作用する、というときには、その本体が作用の主体と客体とに分裂しなければならない。それは必然的に、本体に二つの本質があるという不合理を伴うものである。本体が自己自身に対して作用するのでなく、他のものに対して作用する場合にも、論理の本質は変わらない。他に依らない、自立的な本体が作用するために他者を必要とするということは、本体が他者的な契機を含むということになるからである。
研究家

これは、自己作用の否定である。
ナーガールリジュナは、否定にかけては、最高に面白い。
その否定を、後々の人たちは、更に解釈するという、面白さもある。

ものは自己自身に対しては作用をなさない、ということは区別の哲学一般、とくに説一切有部にとっては重要な原理となっている。
研究家

上座部仏教の代表である、有部である。
それら、つまり、上座部の派閥の論理を、徹底して、否定する、ナーガールジュナである。

区別の立場では、認識の自己認識ということは、決して認められない。
認識は、自己と異なった、対象を認識する。
認識が、自己を、つまり認識自身の中にある表象を対象として、認識するということを、認めなければ、外界の対象は、必要ではなくなる。
認識を、主体と対象とに分析するという、区別の立場は崩壊するのである。

つまり、ナーガールジュナは、それらの立場を崩壊させるべく、屁理屈をこね回した。
そして、ついに、それが主流になるという・・・

認識とは自己認識であると主張するのは経量部や唯識派であって、これらの学派では主観と客観とは認識というひとつの事実の中にある論理的な、仮説的な区別にすぎなくなる。説一切有部はそういう観念論的な立場に始終対抗したが、その反対の原理となっていたものが、認識の、そしてもの一般の自己作用の否認であった。
研究家

ナーガルジュナは、説一切有部の原理をそのまま、承認し、それを前提として、議論をしている如く・・・
だが、ルジュナは、ものの自己作用を否定したからといって、説一切有部と同じく、その反定律である、ものの他者に対する作用を是認し、主張するのではない。
ルジュナは、それも否定する。

本体を設定する立場では、ものの自己作用も、対他作用も、いずれも成り立たないという、矛盾を指摘するのである。

そして、本当に、否定しているのは、本体の立場そのものであるということ。

それなら、最初から、そう、言え・・・
と、言いたくなるのだが・・・

つまり、論敵に対して、コテンパンにしたいという、単なる、賢さの、戯れなのである。
その、賢さ・・・
それを本当に、賢いと言えるのか、どうか・・・

仏陀は、そんな言い回しをしなかった。
ナーガールジュナは、これが仏陀の教えだと、言うが・・・
仏陀に、直接、尋ねたいものである。

主体と客体との関係を検討するために、ナーガールジュナは少なくとも二種類の論理を使用する。一つは無限遡及の誤りの指摘であり、他の一つは相互依存の誤りの指摘である。この無限遡及と相互依存との二つはナーガールジュナにだけ見られるものではなく、その後のインド論理学一般において、論理的誤謬と考えられるにいたったものである。
研究家

インドらしい・・・
無限遡及というより、無限地獄であろうが・・・

説一切有部では、すべて制約された存在は、生じて、ただ一瞬間しか留まらず、滅するという。
そこでは、ご苦労なことに、生・往・異・滅の四つの瞬間の集まった、長さという。

あるものが生ずると、その四つの相状が同時に起こるという。

これも、呆れる話だが・・・

そして、この四つの相状も、心に相伴わないもの、という範疇に含まれ、制約された存在であるから、それぞれが、また、四つの相状を、持つという。
そして、それが、二度目の相状でも、また、四相状を持つとする。
つまり、無限に続くと考える。

呆れる。
無限地獄である。

そこで、有部は、生を生じさせるものとして、生生という、相状をたてる。
生生は、逆に、生によって生じさせられ、無限遡及を断つという。

四つの相状も、おわかりのように、往往・異異・・・となる。

こんな馬鹿馬鹿しいことに、付き合いきれない。

ルジュナさんも、この問題を論じている。
そこでは、相状を、三つに約されている。
もう、四つも、三つも、どうでもいいが・・・

要するに、無限に続いて留まることがないというのである。

これは生にまた生・往・滅の三相があり、その第二の生にも生・往・滅があれば、その関係は無限である。

これが、無限遡及のお話である。

結局、有部が、負けるということである。
無限遡及を断つと言ったのに、ルジュナが、続くと言う。

二つの実体にせよ、一つの実体と属性にせよ、AとBとの二つが関係Cをもつとすれば、CをAと結び付けるためにDが、CをAと結び付けるためにEが必要になる、というかたちで、無限の関係が必要になる。それは最終的な根拠が得られないことを意味するから、この無限遡及に陥る議論はなりたたないわけである。
研究家

そうです。その通りです。
仏教とは、何か・・・

これも、勿論、仏教なのでしょう・・・
四六時中こんなことを、やっていた、仏教という、教義を作られた皆様・・・
ご苦労であった。



posted by 天山 at 06:52| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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