2014年12月01日

神仏は妄想である。508

まだ続ける、馬鹿馬鹿しさ・・・

「行くものが行く」というときには、行くという運動と独立に「行くもの」が考えられている。ということは、行かない「行くもの」にもすでに「行くこと」があるということである。
したがって「行くものが行く」というときには二つの「行く運動」があることになる。

「行くものが行く」ということがいえないから、「行くもの」は行かないはずである。
しかし「行かないもの」が行くわけもないし、「行くもの」と「行かないもの」のほかに第三の行く主体はない。
しかしまた、「行く」という運動が「行くもの」という主体と独立にあることはできない。
だから「行く運動」はなりたたないし、「行く運動」がなりたたなければ、「行くもの」もなりたたない。
そうかといって、「行くもの」と「行く運動」が同一であるならば、作用とその主体とが一つになってしまう。
その二つが別異であれば、「行くもの」なしに、「行く運動」があり、「行く運動」なしに「行くもの」があるという不合理になる。
と、研究家の成果である。

ナーガールジュナは、運動を問題にしているときにも、ある作用とその主体との関係を、同一性と別異性のディレンマに追い込んでゆくのである。
と、なる。

それは、原因と結果を吟味していって、原因という作用の主体と結果を生ぜしめるという作用との関係を問うにいたったのと同じ論法なのである。

以上、理解せずともいいのである。

兎に角、論破するため、破邪するための、言葉遊びである。

そして、それが、仏陀の教えであると、相成るのである。
こんな屁理屈を、仏陀は、言わない。
しかし、後世、このような状態が生まれたのである。

もし薪がそのまま火であるならば、主体とその作用の対象とが同一となってしまう。火が薪と別であるならば、火は薪なしにもあるであろう。そうならば火は常住に燃えるものとなるであろうし、燃える原因を要しないもの、あらためて燃やしはじめる必要のないものとなる。そうであれば、火は作用をもたないものであろう。
ルジュナさん

これも、作用、主体、対象の関係の分析に、二つの異なる方法がとられている。
一つは、作用と主体、また、作用と客体との関係の分析。

これは「過ぎ去るもの」と「過ぎ去る運動」、および「過ぎ去られるもの」と「過ぎ去る運動」の関係について、見たものと同じである。

要するに、繰り返しである。

そして、屁理屈、その・・・もう忘れた・・・

その見るもの「眼」はそれ自体を見ない。自体を見ないものがどうしてそれ以外のものを見るであろうか。
灯火の喩えは十分に見るものを証明しえない。その喩えも見るものと同じように過ぎ去られたもの、過ぎ去られつつあるもの、いまだ過ぎ去られないものの考察によって批判されている。
見ていない見るものなどはどのようにも存在しないのに、どうして見るものが見えるなどということが妥当しようか。
見るものは見ない。見ないものは見ない。見るものと同じようにして、見る人も説明されていると認められねばならない。

こういうナーガルジュナの考え方は彼のいだいていた本質の概念を前提にして理解しなければ、単に非常識な冗舌か、あるいは、詐術めいた詭弁としかうけとれないであろう。
研究家

更に、
いったい眼の本性というとき、その本体は眼の属性である見る作用をもっているであろうか。本体は恒常であり、したがって作用をもたないが、それが現象するときに作用と結び付くという考え方からすれば、眼の本体には見る作用はない。いわば本体はからっぽである。
耳や鼻の本体も同じようにそれぞれの作用のからっぽなものである。そうであれば、いったい眼の本体と耳や鼻の本体とはどうして区別されるのであろうか。眼の本体と耳その他の本体を厳密に区別する有部はその理由を説明できない。
研究家

つまり、説一切有部という、派閥に対する、論戦なのである。

からっぽ・・・
空・・・

眼の本体と耳その他の本体を厳密に区別する有部はその理由を説明できない。

区別しても、おかしくないのである。
耳は鼻でも、眼でもない。
しかし、ルジュナさんは、論破するのである。

私は素人だから・・・
見るものの本質としての見ると、いま見ているという見ると、二つの見る作用が、含まれる、と言うが・・・

本当に、死ぬまでの、暇つぶしである。

実際、東洋哲学の仏教を学んだ者と、話をすると・・・
洗脳されてか、解っているのである。
そして、私が、屁理屈だと言うと、そうだ、と言う。

ただし、否定はしない。
これで、食べている人が数多くいる。
それらの、職を奪うつもりは、毛頭ない。

だから、笑ってしまう。

灯火そのものの中にも闇はないし、灯火のある場所にも闇はない。照らすはたらきは実に闇を破ることであるが、その灯火はいったい何を照らすのか。
ルジュナさん

これを延々と説明することは、出来る、が、面倒だ。

その灯火は、一体、何を照らすのか・・・
それでは、私も、
ルジュナさん、あんたの、言葉遊びは、一体、何処へ行くのか、と言う。

すると、ルジュナさんが出て来て、
何処へも行かない。行くべき理由が無い。私には、主張がないのだから・・・
と、言われそうである。

徹底した、上から目線での、論戦、論破である。

でも、面白いから、続ける。

これはなにも灯火についてだけいえることではない。本体が自己作用する、というときには、その本体の作用の主体と客体とに分裂しなければならない。それは必然的に、本体に二つの本質があるという不合理を伴うのである。
本体が自己自身に対して作用するのではなく、他のものに対して作用する場合にも、論理の本質は変わらない。他に依らない、自立的な本体が作用するために他者を必要とするということは、本体が他者的な契機を含むということになるからである。
研究家

ものを、考えるというのは、実に、面白いが・・・
ここまで来ると、頭がやられているのではと、思ってしまう。

勿論、その通りである。

ちなみに、ルジュナさんの、書いた、別の大智度論、という本があるが・・・
否定の否定の否定の・・・

一体、何を言いたいのか・・・
解らない。

つまり、ボケでいるのである。
論破するために、相当に、無理をしたのであろう。

否定しているうちに、訳が解らなくなったようで・・・
気の毒である。

ところで、今、何処で、何をしているのだろうか・・・

一度会いたいと思うが・・・
質問したいことがある。
何を食べていたの・・・



posted by 天山 at 06:14| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。