それは、デカルトによる、合理主義、二元論に立っている。
それを説明すると、身体的、生理的側面から見ると、皮膚の内側は、自分に属し、外側は、外界である。
だが、精神的、心理的側面から言えば、内と外という区別は、明確ではない。
心そのものを、空間に位置づけることは、出来ないのである。
正確に言えば、内、とは、感覚できない心の世界であり、外、とは、感覚される物の世界のことである。
身体は、自分という自我にとって、外の世界に属することになる。
これは、実に、おかしい。
それ故、医学が、身体について考察するとき、心の問題は、すべて除外される。
身体を客観的な一種の物体として、捉える。
それでは、意識、心の問題は、哲学、心理学に委ねるということになる。
総合的に、身体を理解することを、拒むのである。
これでは、本当の治療と言えないのである。
更に、西洋医学は、対処療法となってしまう。
身体を全体として、捉えることが無いのである。
身体と、精神が、無関係になる事は、有り得ない。
だから、デカルトから始まる、合理主義は、考え直す必要がある。
すべてを、合理主義では、解決できない。
そこで、生きてくるのが、東洋医学の考え方である。
特に、気、という、ものの考え方である。
ここで、今までの考え方を、大きく外して見る必要がある。
つまり、人間の本質は、自然から生かされて生きるという、考え方である。
東洋、勿論、日本には、当然そのような、考え方があった。
自然を征服し、支配するという、近代的、あるいは、キリスト教的な、人工のものではないのが、人間の体である。
自然中心の人間観が、医療の世界にこそ、必要なのである。
整体というものも、それである。
全体として、考える。
二元論的な、考え方をしても、治すことは、できない。
中国、漢の時代の、黄帝内経、という書物には、情動の作用が、非常に重要視されている。
病因は、外因と、内因、そして、不内外因の、三つを上げている。
内因としては、喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の、七つの情、七情が、上げられている。
これは、明らかに、情動の作用である。
外因は、気温・湿度などの、環境的要因である。
不内外因とは、過労、不摂生という、保健衛生的要因を指す。
そして、特に、内因を重視するのである。
西洋医学とは、全く別物である。
だがそれは、今日の、身心医学に近いのである。
当然、身心医学が発展する訳である。
何故なら、人間を根本から、作り上げているのは、精神、心という、内因要素であるから。
ただし、今日の身心医学は、心理療法に近づくものが多い。
心理療法の必要なことは、十分に理解するが・・・
それでは、東洋では、皮膚刺激を主にする。
例えば、鍼灸である。
更に、東洋医学では、心理療法という形を取らない。
これは、治療者の施術を主にし、患者の心理療法は、考えていないのである。
それは、体は、心であるという、思想にあると、言える。
心、つまり、情動が、体を、歪めている。不調和を起こしているという、考え方であるからだ。
心理療法の場合、患者の自己訓練を主にする。
例えば、リラックス療法などのように、自己訓練である。
それらは、暗示効果に頼るものが、多い。
自己暗示である。
そこで、一度、心理療法の世界を見て、更に、気を扱う、東洋医学のあり方を見ることにする。
自律神経訓練法・・・
心理療法の最大のテーマである。
自律神経という、意識では、如何ともし難い神経を、扱うのである。
それが、可能だということである。
非常に、東洋的な考え方に近づくのである。
自律神経訓練法は、瞑想法に似る。
瞑想は、本来、自己の整えと、ある種の宗教的境地を得るものという、考え方があったが、今では、病、精神疾患などの、治療にも、効果をあらわす。
勿論、それは、正しい方法によってなるものだ。
怪しい、新興宗教のような、瞑想法では、逆効果になる。
指導者が必要なのである。
指導者無き、瞑想法は、危ういのである。