2014年08月08日

霊学175

霊は人間の中心点である。
シュタイナー

当然である。
霊学を名乗る以上は、それである。

体はこの霊が物質界を観察し、そこで活動するのに必要な仲介者である。そして魂はこの霊との仲介者である。魂は空気の振動が耳に与える物質的作用から音の感覚を引き出し、この音を快として体験する。
シュタイナー

シュタイナーの時代の、脳学は、いかがなものだったのか。
彼は、脳の働きには、一切、触れない。

これは、脳の働きを、自分専用の言葉で、解説しているように見える。

魂はこれをすべて霊に伝え、霊はそれによって物質界の理解に達する。一方、霊の中に現れる思考内容は、魂の中でそれを実現しようという願望に転化され、これによってさらに体を道具として行為となることができる。
シュタイナー

実に、混乱させる話である。

物質界の中では、魂という仲介者を通してのみ、霊に対処するという。

未発達の人間を例にとろう。彼の魂は肉体の機能に執着する傾向をもつ。彼は物質界が感覚に与える印象だけに快感をもつ。そして彼の霊的生活もまたこのことによってまったく物質の領域にまで引き下ろされる。彼の思考内容は物質的な要求を満足させることだけに奉仕する。
シュタイナー

これは、古代インド、そして、仏教、ジャイナ教などでは、当たり前のことである。
例えば、空の思想など・・・
シュタイナーも、飛んでしまう話だ。

霊的自我は、転生を重ねる間、ますます霊的なものに導かれるようにならねばならない。その認識は永遠の真理の霊によって、その行動は永遠の善によって、決定されなければならない。
シュタイナー

そして、この漠然とした言葉で、浮いてしまうのだ。
更に、霊的自我・・・
色々な、自我が出て来ているが・・・
大丈夫なのだろうか。

死とは、物質界の現実として考察するなら、体の機能のひとつの変化である。死んだ体は魂と霊の仲介者であることをやめ、その機能を物質界の諸法則にまったく従属させ、まったく物質化し、そして自己をそのなかに解消させてしまう。感覚的には、ただ体のこの物質的経過だけが、人間の死として観察される。
シュタイナー

簡単なことを、複雑に記述するのが、得意のようである。

そのあと魂と霊とに何が起こるかは、肉体の感覚では捉えられない。
シュタイナー

当然である。体は、死んだのである。その意識も、無くなる。

だから肉体的感覚による観察とこの観察の上に打ち立てられた学問とは、死後の魂と霊にとって何の役にも立たない。魂界と霊界とにおける諸経過の観察に基づくまさに高次の認識がそのためには必要となる。
シュタイナー

もっともなことであるが、その学問があればこそ、シュタイナーの学問の意味もある。
霊界を信じない、学問は、当然、役に立たないだろう。

しかし霊の本源的な姿をこの魂的世界の中に見出すことはできない。魂はただ霊の創造の場である物質界と結び付けるべき存在なのである。霊がより完成された形姿をとって新しく生まれ変わってくるには、そのための力と鼓舞とを霊界から取ってこなければならない。
シュタイナー

だが、霊を拘束する魂が、物質の本性に貫かれ、色付けされていたので、霊自身も、物質界の方向に向わざるを、得なかった、とのこと。

死後、魂はもはや体ではなく、霊だけと結び付いている。
シュタイナー

繰り返し、繰り返しが、実に多い。

魂は魂本来の環境に生きている。したがってこの魂界の諸力だけが魂になお作用できる。魂界でのこの生活は、はじめのうち、霊も加わっている。
シュタイナー

魂、魂本来、魂界・・・

つまり、霊は、魂と結び付いている。
体は、無くなった。

いつ体が死ぬかは体の法則によってきまっているので、魂と霊が体から去っていくのではなく、人体の力が人体組織の中でもはや働けなくなったとき、この体が魂と霊の拘束を解くのだ、といわねばならない。
シュタイナー

ここ、ここに至ると、笑う。

同様のことが魂と霊との関係についてもいえる。
シュタイナー

もう、この辺りで、いいだろう。

これに洗脳されるのは、大いに、危険である。
その、シュタイナーの思考の中に、埋没してしまう。
そして、何かが、解ったような気になる。

勿論、まだ続ける価値がある。

もう一度言うが、これも、シュタイナーの頭、脳によって、書かれた著作である。
彼は、脳について、何も触れない。
それは、脳の働きを知らないからだ。



posted by 天山 at 06:30| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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