2014年07月04日

国を愛して何が悪い141

古事記の中には、神という言葉から想像されるような、「神聖な神」は原則として存在しない。生(或いは性)と生産の秘密に直結した或る意味で極めて即物的なもの(時には猥雑なものすら)が「神々」と呼ばれ乃至はその行為とされている。
亀井勝一郎

神々と呼ばれ、乃至は、その行為とされている。
実は、すべて行為のことである。

漢語の神という文字を当てただけである。

唯一絶対の神という、観念を持たないのである。
そして、神という言葉に最も近いものは、自然である。
そして、その自然の働きに、行為に、神という文字を当てた。

人間の観念の神というものを、必要としないということである。

日の神としての天照大神が神聖視されているようにみえるが、実は神々の中でも最も抽象的な存在であって、さきに述べた産霊神が、生殖、農耕、言語表現等のうちに、様々にかたちを変えて具体的に偏在する根元の活力となっているようである。
亀井

具体的に偏在する。
まさに、自然の働きである。

唯一絶対の神という、観念を作り上げた民族は、民族の混乱を静めるために、必要だった。

しかし、日本民族は、それを必要としなかった。

唯一絶対の神観念を持つ民族の、野蛮さを見るがいい。
兎に角、いつも、争いである。
争いが、絶えたことは、無い。

何事であれ、「生む」こと、「あらわれる」ということのふしぎ、またその過程についての驚きや歓喜を、古代人は第一義的なものとして口伝したらしい。「神々」という言葉のひびきのうちには、自然や人間に対する彼らの新鮮な好奇心が宿っていた筈だ。またその点についての表現が美しく豊富であればあるほど、神々を喜ばせることだと信じていたようである。
亀井

実に、平和な民族である。

日本には、欧米の神観念は、皆無である。
それは、考え方が、全く違うということだ。

更に、アラブの神観念も、同じく、唯一絶対である。

それは、それぞれの、風土によると、理解するが・・・
また、民族の性格にもよるものである。

生き物を殺さないという、仏教も、風土によるものが、大きい。

だから、日本の神という、観念は、霊に近いものである。
霊は、数多く存在する。

そこには、神同士の争いは、無い。

更に、
ところで、他方にはこれを破壊するものがある。生殖に対しては死、農耕に対しては天災、また人間の過失もあるが、生(或いは性)の歓喜の表現として言うなら、こういう点における表現力は貧しい。「罪」という言葉も出てくるが、それを裁く、言わば罪を罪として自覚させるような峻厳な神は存在しない。したがってそのことに関する深い「神語」もない。すさのをのみこと唯ひとり、暗い情熱を抱いて彷徨しているのが印象に残るだけだ。
亀井

この、罪という、漢語をどのように、理解し、表現に使用したのか・・・
実は、この罪という言葉の意味合いのものは、どこにも無いのである。

延喜五年、905年に編纂された、延喜式の中に、六月の晦の大祓、という祝詞がある。現在も、六月、十二月の末日に使用されている、祝詞である。

そこには、仏教以前の罪の意識が残る。

天つ罪と、国つ罪である。
その文は、省略するが、天つ罪は、八種類を上げている。
それは、農耕生活を破壊する行為である。
人為であれ、天災であれ、それを罪の名として、呼ぶ。
だが、この場合は、どちらかというと、災いという意味が強い。

国つ罪は、十二種類である。
それらは、人間の共同生活に取り、忌むべき行為である。
病気や、虫などの害も、含まれていて、穢れという意味合いが強い。

更に、罪に関する、歌詠みは、一つも無いことである。

生まれた時点から、原罪があるとする、キリスト教などとは、全く違う感覚である。

人に、罪意識を覚えさせて、支配するという、支配者、為政者のものとは、別物である。

万が一、罪を犯したとしても、罪の自覚が見えないのである。
また、その表現も皆無である。

一体、これは、どういうことか・・・
知性の遅れか。

旧約聖書などと、比べてみても、全く違うのである。
あちらは、神が罰を与える。
その大半は、殺される。

旧約聖書は、典型的な父系型である。
しかし、日本神話の場合は、母系型である。

つまり、母系型は、最も、自然に使い感覚を持つ。

古代文明の平和的な状態は、母系型が、主流だった。
それが、父系型に移行するにつれて、様々な制約が生まれた。

更に、歪な人間性である。
そこには、強制という暴力が付きまとうのである。


posted by 天山 at 05:06| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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