2014年06月10日

国を愛して何が悪い137

日本人の精神について・・・
それは、日本人の精神史となる。

では、まず、精神とは、何か。
私は、人間には、魂と、心、そして、精神があって、成り立つものだと、考えている。

その精神とは、言葉の世界である。
言葉があって、精神が成り立つ。

つまり、日本人の精神とは、日本の言葉があって、成り立つものだ。
それでは、日本の言葉は、いつ頃から、成り立ったのか。
それは、縄文期である。

しかし、その資料が無い。
その資料が出てくるのは、後々である。

言葉の誕生は精神の誕生である。その原始の相はどうであったのか。古事記の成立したのは元明朝の和銅五年(西暦712)である。文字のなかった時代、口から口へと伝えられてきた「やまと」固有の言葉を、外来の漢字で表現することは至難の業であったろう。精神史の一ページはここから始まる。
亀井勝一郎 日本人の精神史研究

この亀井の著作から、紹介することにする。

確かに、口から口へと、伝えられていた時代があった。
しかし、言葉が無かったのではなく、文字が無かったのである。
勿論、古代文字、神代文字の存在も、言われているが・・・

ここで、「やまと」固有の言葉とあるが、大和言葉である。
それは、それほど、たやすく、変化するものではない。

奈良、平安時代まで、その息吹は生きていた。
そして、日本語の語源、原点となった。

後の時代に、言葉の解釈をするのに、漢字の意味を持って成したが、誤りではないが、正確さを欠いたと思えるのである。

日本語は、大和言葉から、理解しなければならないからだ。

漢字に当て嵌めた時代は、特に、音によるものである。
勿論、出来るだけ、漢字の意味合いと、同じようになるべく、努力した跡があるが。

漢字の解釈だけに頼って、言葉の意味を論じると、誤るのである。

更に、現代までも、漢字には、音読みと、訓読みがあり、訓読みは、大和言葉である。つまり、大和言葉は、失われていないのである。

手掛かりは、漢字の訓読みである。

ただ、漢字にして、口伝を書き取ったことは、大変革だったと思う。
まさに、精神の一大事である。

そして、また、書かれたものがあるということは、書かれなかったものもあるという、当たり前のことを、考える。
だから、書かれたものから、書かれなかったものを、探る努力も必要だ。

書かれたものを、単なる資料にしてしまう愚は、専門家に任せる。

文字の無かったといわれる時代を、原始古代、あるいは、神代の時代と呼んでいる。その、神代の時代を、探る努力が必要である。

何故なら、文字がなくとも、言葉が存在したということは、精神が存在したということであるから。

その神代の精神を鑑みて、日本人の精神と、精神史がある。

そして、それは、推理、推測のみならず、霊感が必要である。
日本の祖霊に対し奉り、その霊感を得ることである。

それは、祈りだ。
祖霊に対する祈りこそ、重大なことだ。
何故なら、日本は、祖霊をこよなく大切にし、更に、祖霊が自然に隠れた存在として、自然と共生してきた民族だからだ。

さて、神代の時代の精神を探るとしたら、それはそれは、混沌とした世界である。
何せ、今のように、宗教、文学、歴史などの感覚の無い時代である。
概念、観念というものも、見出せないだろう。

わけのわからない、時代である。
それは、今の時点から観るからである。

その、わけのわからない、時代を、俯瞰するという、試みは、実に危険である。
取り込まれる可能性がある。
つまり、精神的混乱である。

だから、祈りには、知性と理性が必要になる。
勿論、感性と、感受性は、必要不可決である。

古来、古事記を通して神々の世界に深入りした人々をみると、その多くは憑かれた人に成るか、或いは一種の狂人になるか、さもなければ大酒のみになるようである。わけのわからなぬものに堪えてゆくのは容易なことではなかったのだ。現代人である私は、「合理的」に接しようと心がけるが、「合理的」という言葉を反省してみると、私自身が「合理的」と思いこんでいる範囲内で、何とか辻褄をあわせようとしていることに気づく。一応辻褄があうと、解釈しえたと思うのだが、古事記のもつ混沌は、そんなことを容赦なくはねのけてしまう。
亀井勝一郎 現代語にして引用している。

この、合理的という言葉は、西洋哲学の言葉である。
だから、西洋の合理的という、概念を当てるが・・・
それを説明していると、とんだことになるので・・・

だが、ここにも、問題がある。
日本には、体系的な思想がなかったという、指摘がある。
その通りで、それが必要なかった言葉の世界である。
いや、言葉の世界では、体系化された云々がなければ、云々・・・とは、西洋の哲学体系を持っての、言葉である。

それは、それであり、これは、これである。
日本には、体系化された思想が無いというのが、日本の精神の特徴である。
それでは、何故、そうだったのか・・・
それが、問題である。

ただし、現代は、西洋哲学その他諸々の哲学、思想を取り込んで、日本語という世界で、遊ぶ。
それは、また、時代と、時代性であり、生成発展しているのであろう。



posted by 天山 at 06:28| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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