2014年06月02日

神仏は妄想である。478

新約聖書の写本について、様々な議論があるが・・・

更に、テキストの内容の違いなど、大したことではないという教会関係者もいるが・・・

アーマン氏の、結論を書く。

写本が重要であることは、当然といえばあまりに当然ではないか。新約聖書をどう解釈するかは、写本にかかっている。そして、歴史的イエスについて知り、イエスの死後、キリスト教会がどのような歩みを辿ったのか知るためにも、写本が必要なのだ。写本などどうでもいいと触れ回っている輩は、歴史的事実を知ることで当惑してしまう人々を、何とかなだめすかそうとしているとしか思えない。そうでないなら、自己欺瞞に陥っているのだ。
アーマン

微妙な食い違いから、当時の様子が伺える。
更に、教義に関しても、それは大きな影響を与えることになる。

例えば、十字架上のイエスが、口にした言葉、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という台詞を、省略した書き手もいた。
ルカ福音書

初期キリスト教は、この言葉を、自分たちがしでかしたことが分らないユダヤ人を、赦す言葉であると、解釈した。

二、三世紀に、キリスト教徒の間で、反ユダヤ主義が広く見られたという時代背景を見れば、一部の書き手が、この一節を省いたことも、頷ける。

当時、多くのキリスト教徒は、ユダヤ人が、自分たちの行いの意味を、重々承知していて、神が彼らを赦す道理がないと考えていたのである。

ユダヤ人を赦す道理が無いから、省く・・・

こうして、時代背景により、違いが出てくるのである。

後に、この反ユダヤ主義、思想が、ユダヤ人に対する、強烈な差別を生むことになる。

さて、話は続く。

問題の大きさからいえば、私たちが、神の啓示の言葉がどのようなものだったか分らないことよりも、聖書に記された言葉が、神の啓示だと考えることのほうが深刻だ。加えて、神が、現在私たちの手元にある聖書を、本当に聖典として認めたのかどうか、知ることはできない。正しい文書だけが聖書に収められていると、どうして言えるだろうか? 神から霊感を授けられた書など、他には存在しないと、どうして断言できるだろうか?
アーマン

私も、同じように言う。
全く、その通りである。

聖書に収められていない、すべての、文書を簡単に、偽文書、偽書だと言う、人たちが、いる。勿論、キリスト教徒である。

彼らは、聖典が、どのような歴史を持って成り立ったのか、考えてみたこともないのである。
最初から、そのようであった、思い込んでいる。

どの文書を聖書に含めるか、という問題は、長期に渡り、議論に議論を呼び、それでも、決まらなかった。
現在も、決まっていないのである。

信じがたいことだが、世界中のすべの教会が最終的な合意に達したことは、ただの一度もなかった。歴史を通じて、いつもどこかの国で(シリア、アルメニア、エチオピア)、私たちの使っている聖書とは微妙に異なる聖典を持つ教会があった。
アーマン

只今の、27の書からなる、新約聖書は、16世紀の、宗教革命に対抗して開かれた、トリエント公会議まで、いかなる公会議によっても、承認されたことはなかったのである。

これは、当時、旧約聖書外典を、旧約聖書から外そうとする、プロテスタントの運動に対抗して、これも同時に、聖典に入れることにしたという。

教会の成立後数世紀の間、あまたのキリスト教集団が、多種多様な神学論や教会組織論を擁護した。これらの集団は、最も根本的な問題のいくつかについて、全く異なる主張を展開した。
アーマン

聖典の発展に伴う難題は、自分たちこそ正しいと主張し、信者を獲得しようと競合しあう集団一つひとつが、彼らの見解に権威を与えてくれる聖なる書物を、独自に保有していたということだ。こうした書物の多くは、使徒によって書かれたとされていた。一体誰が正しいのか? 紛議の結果、ようやく出来上がった聖典は、最終的に勝利した集団が護持していた書を収録したものだった。しかしそこに辿りつくまでには、何世紀もかかったのである。
アーマン

その様子については、以前、色々な派閥の話として、書いた。

イエスの死後、150年ほども経ると、様々な、集団が、我らこそ正しいと、言い張るようになる。
イエスと、その使徒の教えを正しく継承していると称する、キリスト教集団である。

そして、改宗者を獲得する闘争の過程で、最後に勝ったのが、ローマを中心にしている、集団である。
ローマ帝国の首都ローマの教会は、信徒の数、資金力、組織力で、抜きん出ていたのである。
更に、ローマ皇帝の後押しである。

現在に至る、ローマ・カトリックである。

私が簡単に言えば、ローマ・カトリックは、初期ユダヤ人のキリスト教徒を皆殺しにして、白人のための、宗教を作り上げた。
それが、キリスト教の前進である。

最も、戦闘的で、世界で最初に大規模な戦争を仕掛けた、キリスト教徒である。

その、白人キリスト教と、白人至上主義が、加わり、世界をまたにして、人種差別と、植民地政策で、現在までの、混乱を作り出したのである。

ローマ法王とは、西欧の王位に比べて、遥かに、権力と権威を持つ者となった。そして、それを、許した、西欧の歴史である。

今、キリスト教の存在価値があるとしたなら、白人の野蛮性を、抑えるという意味で、友好だろう。
彼らは、宗教が無ければ、倫理も人倫も無い、野獣のようになる。

世界の根本的問題・・・
それは、ユダヤ教と、反ユダヤ主義の、キリスト教による。

現代の、イスラム原理主義のテロリストの登場も、ユダヤ、キリスト教の存在によるものであるといえる。




posted by 天山 at 05:35| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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