2014年05月19日

沈黙を破る90

このブログに、神仏は妄想である、というエッセイを書いているが、宗教を否定するものではない。
それは、お勉強である。

だが、宗教団体となると、また、違ってくる。

宗教団体とは、その指導者と、信徒、会員である。

慈悲行を教える、仏教系団体が、真っ当に、それを行なうかといえば、違う。
それを行なうのは、多分に、その宗派の宣伝、喧伝行為である。

個人的に、慈悲の行為を行なう、信徒や会員は、いるであろうが・・・

さて、キリスト教である。
福音書の中で、イエスが、善いことをする時は、人に知られず、右手が行なうことを、左手が知らぬように、云々とある。

つまり、善行は、宣伝するなということだろう。
それは、偽善者がやることだと、言うのである。

だが、プロテスタント系は、善行は、全く、布教のためである。
助けて、その信仰を受け入れよと、言うのである。

そして、カトリックは、また、同じように、そのようである。
更に、善行は、知られないようにと、人には、言うが・・・

マザーテレサに関しては、別なのである。
世界的に知られた、マザーテレサの行為である。

それそこ、偽善者と呼ばれるような行為である。
ところが、人には、それを言うが、我がマザーテレサの場合は、違うのである。

大きな矛盾であるが・・・

そして、マザーテレサは、云々・・・
このような言葉を言ったと、いけしゃーしゃーと、口にする。

宗教団体とは、何ともでも、言える。
その常識は、世の中の常識を超えている。

それでも、平気のへいさである。

宗教団体とは、よく出来たもので、自分たちの世界で、通用することが、何よりなのである。

私のように、個人的に、ボランティア活動をしている者に、平然と、善行は、人に知られぬように・・・などど、言う。

呆れる。

更に、呆れるのは、カトリックの信徒は、自分も、マザーテレサの側にいると、思い込んでいることである。
何も、しなくても、そのようである。

少しばかりの、寄付をして、マザーテレサと共にと、思い込む様は、さまに、信仰の様に似る。

信仰は、迷いと、思い込みの世界であるから・・・
当たり前だが。

個人的に、何を信じようと、全く、それは自由である。
だが、世の常識を破り、言葉を発するのは、その団体の中だけにして欲しいと思うが。

正しい信仰を持つという、確信と、うぬぼれには、本当に、適わないのである。

ちなみに、宗教団体の善行は、すべて、その宗教の宣伝行為である。
それ以外の、何ものでもない。

その証拠に、立派なパンフレットを作り、これこれ、このような善行をしていますと、喧伝している。

それも、また、呆れるが・・・


posted by 天山 at 06:03| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。