2014年04月13日

神仏は妄想である。471

新約聖書にある、27つの書のうち、昔から、作者だと考えられてきた人物が書いたことが、ほぼ確実なのは、八つの書である。

それは、パウロが書いた七つの書簡と、ヨハネの黙示録である。
だが、ヨハネは、同名異人によるかもしれない。何処のヨハネと、記されていないのだ。

多くのキリスト教は、そんなことは、詮索せずに、流れるままに、信じている。

くどいようだが・・・
パウロの書簡に戻ると、「コロサイの信徒への手紙」「エフェソの信徒への手紙」である。彼らも、パウロの教会のメンバーであるが・・・

両書簡が、歴史的パウロと一線を画する重要な特徴は、他にもある。たとえば、動詞の使い方や、パウロの書簡に頻出する特定の用語法が、両書簡では異なっている。
アーマン

そして、アーマンは、
「テサロニケの信徒への手紙二」と同様、これらの書簡は、パウロの死後書かれたようである。もしかしたら、その十年後か二十年後に、パウロの教会に所属していた作者が、キリスト教共同体や、パウロの死後、共同体の中で持ち上がった問題について論じようと思ったかもしれない。両作者は、使徒の名を騙ることによって、読者を欺こうとしたのだ。
と、言う。

だから、矛盾が生ずる。

何せ、パウロは、本当にイエスが、雲に乗って、天から現れると考えていたのであり、それも、すぐに、それが実現すると、信じていたのである。
しかし、現れなかった。
勿論、今も、現れない。

だから、パウロの死後、何とか、それを埋め合わせるために、新しく、書簡を書かなければならなかったのである。

矛盾・・・当然出てくる。

学者は、「牧会書簡」の「テモテへの手紙一、二」と「テトスへの手紙」については、「コロサイの信徒への手紙」や「エフェソの信徒への手紙」の場合以上に、大した議論をしていない。聖書研究の最先端を行く、欧米の批評的な学者の間では、随分前から、パウロが、これらの文書を書いていないというコンセンサスが出来上がっているからだ。
アーマン

これら、三つの書簡は、同一人物が書いたと、一般に了解されている。
その三つの書簡は、パウロの手によるものではないということが、文体などの関連から、明らかにされている。

そして、その三分の二が、非パウロ的な言葉で、二世紀のキリスト教徒の著述家が、常用していたもの。
つまり、後世に発展した、キリスト教に特有の、より新しい言葉であるということだ。

その一つの言葉・・・信仰・・・

パウロにとっての、信仰とは、神と正しく向き合うために、心を委ねて、キリストの死を受けいれることを意味する。

この単語は、信頼という言葉に近く、関係性を表す。
一方、牧会書簡では、この単語は、別の意味で用いられている。キリスト教を形作る一連の教義や、考え方の集合体を指している。

つまり、関係性を表現する言葉ではなく、何を信じるべきか、という、キリスト教の教えを規定するものなのだ。

キリスト教のコンテクストのなかで、このように信仰という言葉が使われるようになったのは、後世になってからだ。これは、「牧会書簡」が、後世の非パウロ的な環境から生まれたと思われる理由の一つである。
アーマン

まだまだ、パウロの書簡、その教会の状況説明があるが・・・

もう、この辺で、いいだろう。

作られてゆく過程を見たのである。

キリスト教徒は、聖書の一部分だけを、取り出して、云々するが・・・
それは、勝手な解釈、勝手な思い込みである。
そして、その思い込みが、信仰だと、勘違いさせる。

つまり、私は、それを、迷いだと言うのである。
信仰とは、迷いなのである。

聖書と、他の書物とに、何の区別も無い。
多くの書物の一部分を取り出して、云々するのと、同じ程度なのである。

そして、その言葉というものは、多くは、思い込みの概念を作り上げて、人間の妄想を益々と、燃やすのである。

ナザレのイエスも、仰天する、言葉の数々である。
それが、より複雑になり、神学という、更なる妄想を生む。

神学の親は、哲学である。
その哲学は、人間による。つまり、神学なるものも、人間による。
決して、神が関与したものではない。
人間の頭で、捏ね繰り回したものである。

唯一、救いがあるとすれば、行為によってのみ、救われる。
それは、現実的な行為である。

例えば、隣人愛を説くなら・・・
本当に、隣人を愛することである。

ところが・・・
プロテスタントが、出来た時、30年戦争が始まる。
カトリックと、プロテスタントの闘いである。

更に、それ以前は、十字軍の遠征という、闘い。
カトリックは、戦争仕掛け人であり、キリスト教という、宗教は、全般的に、戦争を生む宗教である。
何処に、隣人愛なるものがあるのか・・・

そういう意味では、全く話にならないのである。
更に、付け加えれば、人種差別思想も、キリスト教から、出たものである。



posted by 天山 at 06:08| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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