2014年04月11日

神仏は妄想である。469

歴史的観点からすれば、いくつかの偽文書が、まんまと正典入りしたことを疑う理由はない。なぜなら、新約聖書以外にも、偽文書はごまんとあるのだから。
アーマン

ところが・・・
カトリック信者、プロテスタント信者、その他の、キリスト教徒は・・・
正典以外を、偽文書だと言う。

中には、プロテスタントの一派が、外典を取り入れているグループもあるには、あるが。

正典以外の、外典を、偽文書・・・だと、言い切れるのか・・・
更に、その正典というものの、信憑性となると、誰も、何も言えないのである。
証拠も、根拠も無い。

初期教会では、様々な見解を持つキリスト教徒が大勢いたが、そのほとんどは、後に異端とされる。
アーマン

と、いうことだ。
その、異端とは、権力によって、成り立った。

ローマ皇帝と、白人キリスト教徒が、グルになって、行なったものである。

現在の、ローマカトリックは、パウロの教えが主流である。
ところが、そのパウロの書簡の一部が、偽物であることだ。

正典に収録された六つの書簡の作者が、実は、パウロではない。

だから、教えを変更するか・・・
出来ないのである。
すでに、既成事実になっている。
あるいは、変更したならば、カトリック神学が、崩れる。

アーマンの解説から・・・
「テサロニケの信徒への手紙二」は、パウロの六つの書簡の中でも、その作者を巡って最も熾烈な論争が繰り広げられた。
この手紙二は、パウロが書いたことが、ほぼ確実な、「テサロニケの信徒への手紙一」と酷似している。

あまりに似ているため、作者は、これを書く際に、手紙一を参考にし、そこに書かれている内容とは、かけ離れた内容を付け足したと、考える学者もいる。

この二つの書簡の共通点は、古代文書が捏造されたかどうかを証明する際に、学者が直面するある一つの問題を浮き上がらせた。偽造に長けた者なら誰しも、当然、自分が成りすましている人物の作品に見えるよう、最善を尽くして偽書を作るであろう。ある偽作者は、他の者よりも優秀に違いない。しかし、もし誰かがその技に抜きん出ているなら、少なくとも文体については、彼の偽造行為を証明するのは難しい。
アーマン

しかし、パウロを真似ながら、パウロとは違う、神学論を展開するのだ。

それは、沢山の理由が、考えられる。
教会を取り巻く状況が変化した・・・
パウロの思想を理解出来ず、誤解した・・・

「テサロニケの信徒への手紙二」が、パウロの手によるものではないとみなす、主要な根拠は、「テサロニケの信徒への手紙一」で、パウロ自身が語ることと、矛盾しているからである。

それは、主の日が更に来てしまった、ことに対する反論である。

語り掛けられている、キリスト教徒は、この時代の終焉、すなわちイエスが栄光に包まれて、戻ってくるときが、すぐそこまで来ていると、信じていたようである。

作者は、この間違った認識を正すため、この書簡を書いている。

そこで、書簡の二章では、終末が到来する前に起こる、出来事が列挙されている。

終末は来ておらず、すぐに来るわけでもない。終末に先立ち、はっきりとした、前兆が現れる・・・

キリスト教の新興宗教が、今も、それを行なっているようだ。

イエスが、神の国が近づいた、悔い改めて・・・と言った。
それを、今すぐのことだと、思った。
実際、イエスも、それを信じていた。

ところが・・・
いつまでも、来ない。
それどころか、イスラエルが滅ぶ。

「テサロニケの信徒への手紙一」では、パウロが、終末がすぐに訪れると、書いてあるのだ。
イエスが、戻ってくる前に、死んでしまった教会メンバーもいた。信徒は、戸惑い、取り乱していた。

パウロは、生きている信徒に、イエスが再び現れるときは、死者がまず最初に復活し、彼らに見合う祝福を受けるのだと、納得させるために、この書簡を書いた。

イエスは、これからのも、天から雲に乗ってやっては、来ない。

偽文書の話は、これで、いい。
それより、大切なことは、ウソなのである。
イエスが、天から雲に乗ってくる前に、多くのイエスの、生まれ変わりが、現れた。

驚くべき、蒙昧である。

死者は、その肉体のまま、復活すると信じていた。
今も、そうであるが・・・

キリスト教新興宗教の中には、いつも、その預言が外れ、更に、ウソの上塗りをして、平然としている、教団も多々有る。

要するに、ウソなのである。
ウソの上に築かれた教義は、大嘘なのである。

キリスト教の大きな教義の一つが、死からの復活である。
死に打ち勝った、というもの。

この世に、死に打ち勝つものは、ありません。
確実に、人は、死ぬ。
そして、復活は無い。

ただし、肉体が滅びて、魂と変容するのである。
勿論、宗教の熱心な信者は、その宗教の施設の上空で、浮遊すると、相場が決まっている。

キリスト教徒は、イエスに逢えず、仏教徒は、仏陀に逢えません。
神の国、天国も、極楽も無い。
あるのは、次元を別にした世界のみ。



posted by 天山 at 06:09| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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