2014年02月25日

国を愛して何が悪い118

信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。
新渡戸

伊達政宗は、礼に過ぐれば、へつらいとなる。

心だに
誠の道に
かないなば
祈らずとても
神や守らん  菅原道真

孔子は「中庸」において誠を崇び、超自然力を付与してほとんど神と同一視した。曰く、「誠は物の始終なり、誠ならざれば物なし」と。
新渡戸

勿論、今の中国には、そのような誠は、皆無である。

更に、孔子は、それを神と同一視したというが・・・
孔子は、平面思考のみを行なった。

ただ、それほど、誠が、大切であること。

虚言遁辞はともに卑怯と看做された。武士の高き社会的地位は、百姓町人よりも高き信実の標準を要求した。
新渡戸

武士の一言・・・
それほど、重いものはない。

二言・・・すなわち二枚舌をば、死によって償いたる多くの物語が伝わっている。
新渡戸

信実を重んずることかくのごとく高く、したがって真個の武士は、誓いをなすをもって彼らの名誉を引き下げるものと考えた。この点、一般のキリスト教徒が彼らの主の「誓うなかれ」という明白なる命令を、絶えず破っているのとは異なる。武士が八百万の神を呼び、もしくは刀にかけて誓ったことを、私は承知している。
新渡戸

ここで、信実、真実と、書かないことである。

矢内原の訳が、いいのだ。

近頃一人のアメリカ人が書を著して、「もし普通の日本人に対し虚言を言うのと礼を失するのといずれを取るかと質問すれば、躊躇なく「虚言」と答えるであろう。と述べた。かく言えるビーリー博士は、一部は正当であり一部分は間違っている。普通の日本人のみでなく、武士でさえも、彼の言えるがごとくに答えるであろう、という点においては正しい。しかしながら博士が日本語の「ウソ」という語を「虚偽」と翻訳して、これに過当の重みを置いた点は誤りである。「ウソ」という日本語は、何でも真実「マコト」でなきこともしくは事実「ホントウ」でなきことを示すために用いられる。
新渡戸

ここに、翻訳の難しさがある。

ローウェルの言うところによれば、ワーズワースは真実と事実とを区別することができなかったというが、普通の日本人はこの点においてはワーズワースと異ならない。
新渡戸

だから、私も、事実であると、書く。
真実は、人の数ほどある、時代になった。

だが、日本人の感性は、事実と真実とは、同じ意味なのである。

事実ほど、人の数ほどある・・・
今更、言葉遊びをするつもりはない。

単に礼儀のために真実を犠牲にすることは、「虚礼」であり、「甘言人を欺くもの」であるとなされた。
新渡戸

礼よりも、思いのが、誠である。

誠を尽くすのが、武士である。
その誠の、主は、君主に対する、忠義である。

この後、新渡戸は、商人と武士の相違を書いているが・・・

結果的に、商売人も、誠が、最も利益を上げるものであるとの、結論である。

つまり、
アングロ・サクソン民族の高き商業道徳に対する私のすべての誠実なる尊敬をもってして、その窮極の根拠を質問する時私に与えられる答えは「正直は最善の政策なり」・・・正直は引き合うということである。
と、なる。

これは、アングロ・サクソンというより、カルビン主義である。
カルビン主義が無ければ、アングロ・サクソンは、無謀な者となるのである。

神の前に、正しく・・・

それは、ドイツでも、同じことだった。
彼らには、神が必要なのである。

しかし、日本人、そして、武士は、神ではない。
我が胸の内である。

天地神明に誓い・・・
そして、刀、剣に誓って・・・

武士道の信実は果たして勇気以上の高き動機をもつやと、私はしばしば自省してみた。
新渡戸

虚言は罪として裁かれず、単に弱さとして排斥せられた。それは弱さとして、甚だ不名誉となされた。事実において、正直の観念は名誉と不可分に混和しており、かつそのラテン語およびドイツ語の語源は名誉と同一である。
新渡戸

誠が、正直、そして、名誉と続く道へ・・・

現在、新渡戸のように、日本の精神を、このように真っ当に語れる、識者は、いるか・・・
実に、不安である。

欧米に、おもねる者が、多いのが、現実。




posted by 天山 at 06:00| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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