2014年02月17日

フィリピン・ボホール島へ9

三日目の朝、日曜日である。
朝、10時、私は、支援バッグ一つを持って、教会に向った。
8ペソで乗れる、ジプニーに乗る。

行き先は、解らないが、教会の方面に向うので、乗った。
矢張り、教会の前で数名が降りるので、私も、即座に降りた。

丁度、ミサが行なわれていた。
そして、信者は、何と、溢れ出ていた。
聖堂に入り切らず、外に溢れているのである。

350年のスペイン統治時代に、おおよそ、カトリックがフィリピンを席巻したのである。
そして、アメリカの統治が、50年。
戦後から70年。もはや、キリスト教、中でも、カトリックが伝統と言える、時代を迎えた。

暫し、信者が歌う、聖歌を聴いていた。
溢れ出た信者は、それぞれ、手を合わせたり、両手を開いたりして、感無量の様子。

その様子について、色々と、書きたいことがあるが・・・
今回は、止めておく。

さて、私は、衣類の必要な人を探す。
その家族は、教会の前で、蝋燭を売っていた。
子どもの姿を見て、すぐに近くに行き、バッグを広げて見せた。

子どもの着ている物を見れば、一目瞭然である。
母親が、喜んだ。
子どもと、大人物を差し上げる。

だが、教会の横には人が多くて、入られないので、教会前の公園に入ることにする。
しかし、ストリートチルドレンは、見当たらない。

行きつ戻りつ・・・
必要な人を探すが、見当たらない。
それで、ホテルへの道を歩くことにした。

パン屋の前で、信号待ちをしていると、一人の女の子が、来た。
ストリートチルドレンである。着ている物が、汚れている。
物乞いをする。

オッケー、パンは後で、服を上げるから・・・
英語が解らなければと、ジェスチャーでも示す。

それから、女の子に、衣類を渡していると、一人、また一人と、出て来るではないか。

五人の子供たち・・・
すると、近くで待機していた、バイクタクシーのおじさん、二人が私を手伝う。
カメラを渡すと、写真も撮ってくれた。

二、三枚ずつ、衣類を渡す。
最後に、赤ん坊を抱いた、女が来た。

幼児物も多く、持参していたので、彼女と、赤ん坊にも、上げられた。
それから、パンを買い、一人に二つずつ、配る。

サンキューという声が、周囲から、上がる。
バイクタクシーの、おじさんたちである。

私は、まだ先にも、いるかもしれないと、渡し終えて、また歩くことにした。
バイタクのおじさんが、ホテルまで乗せて行くというが・・・
アイム・オーキングと、断った。

だが、それ以降は、現れなかった。
きっと、どこか、別の場所にも、大勢いることだろうと、思った。

ビサヤ諸島の島々には、必ず、ストリートチルドレンがいる。
それぞれ、そのスタイルが違うが・・・

兎に角、少しでも、渡すことが出来た。
明日は、セブ島に戻るのである。

折角、遥々と、ボホール島にやって来た。
少しばかりの、安堵感。

ボホールで、初めて、汗だくになった。
部屋に戻り、シャワーを浴びる。

何度か書いたが、彼らは、私である。
更に、彼らの存在が、私の行為を生む。
支援するというのは、支援される人がいて、成り立つ。

彼らがいなければ、支援活動も無い。
フィリピンでは、ドネーションとか、チャリティとか言う。
あるいは、教会用語で、ミッション。

翌日、ホテルを12時で出て、フェリー乗り場に向かい、来た時と同じ手続きで、セブ島に戻る。

三日間は、過ぎれば、あっという間。

セブシティの乗り場に着くと、案の定、タクシーの売り込み。
ダウンタウンのホテルまで、300ペソ、150ペソと、言われる。
最後に、メータータクシーに乗る。
55ペソで到着。

今回は、シングルルームを止めて、ダブルルームにする。
シングルルームは、独房のような部屋だから。

740ペソの部屋である。
明日の一日、支援物資をすべて差し上げて、マニラに戻る。

マニラで、一泊して、帰国である。

セブシティでの、支援の場所は、決めていた。
火災で焼け出された、スラムの人たちの、テント住まいの場所である。

二年前、私達がセブ島に到着した時、その情報を得て、急遽、支援に出掛けた場所である。
そこでは、衣類が足りない。
食べるために、衣類を買う余裕が無い。

更に、ホテル前に二つの家族が、ホームレス状態で住んでいる。
彼らにも、渡すと、決めた。





posted by 天山 at 06:02| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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