2014年02月05日

神仏は妄想である。460

「マタイ」と「ルカ」のイエス誕生に関する記述には、非常に顕著な違いがある。「マタイ」に書いてあることが、ことごとく「ルカ」には書かれていないのだ。その反対も然り。「マタイ」では、ヨゼフが夢で神託を告げられるが、「ルカ」ではそのことに触れられていない。「ルカ」では、エリザベトとマリアの前に天使が出現するが、「マタイ」にそのようなくだりはない。「マタイ」には賢者が登場し、ヘロデ王による幼児殺戮、聖家族のエジプトへの逃避行およびユダヤを迂回してのナザレへの帰還について記されている。しかし「ルカ」にはそのような話が一切出てこない。その「ルカ」と言えば、洗礼者ヨハネの誕生、ローマ皇帝による住民登録制度の実施、ヨハネとマリアのベツレヘムへの旅、飼い葉桶と宿屋の話、羊飼いの話、イエスの割礼、エルサレム神殿で赤子イエスを神に捧げる話およびその直後の帰郷といったふうに物語は続く。そのどれ一つとっても、「マタイ」には載っていない。
アーマン

つまり、二つの物語は、困難な矛盾があり過ぎるのである。
つなぎ合わせて、解釈しても・・・

「マタイ」と「ルカ」が言うように、イエスが本当にヘロデの治世に生まれたなら、この時キリニウスがシリア州の総督だったという「ルカ」の記述は間違っていることになる。ローマの歴史家タキトゥスやユダヤの歴史家ヨセウスの著作物、古代の碑文などの様々な資料から、キリニウスは西暦六年にシリア州の総督に就任したことが分っている。これは、ヘロデが死んだ十年後のことだ。
アーマン

こうして、アーマンは、順々に、その矛盾と、誤りを書き続ける。

何度も言うが、創作だから、そういうことになる。

ルカは、ヨゼフとマリアの故郷は、ナザレというが、マタイは、全くそれには、触れない。
マタイは、初めから、二人は、ベトレヘムと関わりがあるとしている。

更に、宿屋と飼い葉桶の話は、無い。
二人は、ベトレヘムの家にいて、イエスを生んだ。

そして、ヘロデ王・・・本当は、いないが・・・
二歳以下の男児を皆殺しするように言う。
それは、賢者が現れる、随分前に、生まれていたことになる。

そうすると、イエスの誕生後、数ヶ月、一年、それ以上、ベトレヘムに留まっていたことになる。

それでは、ルカが、全く嘘を書いていることになる。
イエスが生まれて、一ヶ月ほど経って、ナザレに戻ったことになっている。

マタイは、エジプトに逃げていた家族が、ヘロデ王が死んだので、ベトレヘムに戻ろうとする。
しかし、ヘロデ王の息子が後を継いだので、ナザレに移住せざるを得ない。
つまり、マタイは、彼等は、ナザレではなく、ベトレヘム出身だというのである。

二つの福音書の同じところは、マリアが処女だったこと。イエスが、ベトレヘムで生まれたことである。

何故、ベトレヘムなのか・・・
それは、マタイが、旧約聖書の、ミカ書が、メシアがベトレヘムからやって来ると、預言しているからである。

ガリラヤのナザレの町に至る、物語を作る必要があったのである。

まあ、苦心惨憺である。
嘘を書くのも、楽ではない。
しかし、初期キリスト教団、初期イエス集団としては、何とか、旧約聖書との、整合性を整えたかったのであろう。

少年時代は、私は、世の救い主は、最も貧しい場所、馬小屋の飼い葉桶で、生まれたと、教えられたものである。
そして、ルカと、マタイの、二つの物語を合わせた、ストーリーを聞かされたものである。

そのクリスマスの前には、待降節という、四週間の準備期間があった。
それは、太祖、旧約の代表的な人物たちを、一人一人、思い出すというものである。

こじ付けも、程がある。
それが、ローマカトリックに代表される、嘘八百であった。

そして、それを、そのまま受け継いだ、プロテスタント・・・その他、キリスト教の新興宗教である。

こういうのを、呆れるというが・・・
それは、何も、キリスト教に限ったことではない。

仏典も、イスラム教典も・・・
その他の、宗教の正典なるものも、である。

そして、彼ら、宗教愛好者たちは、事実ではなく、そこに、真実がある、云々と、事実を捻じ曲げる。

兎に角、信じることで、救われる。
兎に角、信じることで、悟る。

信じさせれば、こっちのもの・・・
皆々、騙されて、その信仰の喜びに、涙を流すのである。

皆、人間の、創作、作り上げた、諸々の、物語に酔いしれて・・・
騙される。

空海などは、それを知らない人間は、酒に酔ったようなものだと、言うが、彼こそ、信仰に酔ったものであり、詐欺師であろう。

信仰という、迷いに入り込んで、身動きが取れなくなってしまった、面々・・・
哀れである。

カトリックでは、洗礼によって、原罪が許され、神の国、天国に行く。
唾棄すべき、日本仏教の宗派は、すべて、戒名なるものを、与えて、引導を渡し、極楽へ、行くという。

この迷いは、いつまで、続くのであろうか。
霊界には、天国も、極楽も無い。
存在するのは、想念の世界である。

隣に居ても、想念が違えば、永遠に逢うことが、無い世界である。
霊学を学ぶべきである。




posted by 天山 at 06:31| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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