2014年01月13日

沈黙を破る82

何度も書いたが・・・
確認するために、書く。

ボランティアである。
日本語に訳すと、奉仕とか、支援とか・・・

だが、ボランティアの語源を探ると、ラテン語の、ボランタスからなる言葉だ。
その意味は、生きる意味意識、である。

生きる意味意識を行為する、活動という意味になる。

すると、奉仕、支援とは、少し違う。
奉仕は、たてまつり、つかえる、支援とは、ささえて、援助する。

奉仕は、神事の行為だった。

さて、日本人と欧米人のボランティアに対する、大きな違いは、その行為を、神に捧げる。更に、その行為によって、もたらされるものは、聖書の中で、イエスが言う、その小さな者にしたことは、私にしたことである、という言葉に行き着く。

マザー・テレサが一番解りやすい。
神様のために、良いことを・・・

つまり、それは、神のために行なうのである。
人道支援とは、神のためである。

それは、それで、意義のある事だ。

日本人は、奉仕は、神事であるが、人に対する行為は、親切であり、仏教の利他の行為、慈悲の行為となる。

それは、人と人の関係になるのである。
袖振りあうも他生の縁、という。

さて、私が言いたいことがある。

ボランティアに必要なものは、支援を必要とする人がいるということである。

貧しい人が必要。
助けを必要とする人がいる。
障害を持った人がいる。

つまり、そういうことだ。
もし、そういう人が皆無ならば、ボランティアは、必要ではなくなる。

そうすると、もっと、本質的なことを考えることになる。

助けを必要としない人に対しても、何がしかの行為という、善意がある。
日本では、親切という。

いつも、何か人の為にと、考えて行動する人は、即座にそれが、出来る。
挨拶もそうである。
挨拶は、しなくてもいい、が、すると、尚良いのである。

コミュニケーションである。
それが、人と人を結び付ける。

ということで、ボランティア行為とは、特別になんでもない、当たり前の行為ということになる。

私にとっては、そうである。

健康な人でも、時には、病になり、人の手を借りる場合がある。
絶対に、人の迷惑にならないと、踏ん張って、生きる人は、孤立する。
人間の孤立は、死を意味する。

集団生活を人類発生の時から、しているのである。
今は、社会という。

そして、社会から、国家、更に、国民国家へと、進化した。

人は、一人では、生きられないことになっている。
どんなに頑張っても、それは、避けられないことだ。
日本では、道端で、死ぬと、行政が、その始末をする。

鎌倉時代のように、そのまま、放り投げておかないのだ。

更に、国が国民の生活を保障する。
それを、福祉といっている。

ボランティアも、福祉の一部に入っている。
行政と、民間のボランティアが、共同作業をするようになった。

ただし、ボランティアは、無償の行為といわれている。

行政の、行為は、国が面倒をみる。
民間は、寄付などの民間の人に支えられる。

日本でも、災害時に、ボランティアが多くなってきたことは、いいことだ。

そして、それが、自然な行為になることである。
当たり前の感覚である。

神が介入しなくても、それに問題は無い。
神が介入してもよい。

問題は、行為に尽きる。
だから、何を語るのではなく、何を行なうか、なのである。

ボランティアをする人がよく口にする言葉がある。
逆に勇気、元気を貰った・・・

そんなことは、当たり前なのである。
何せ、相手あることである。
相手が存在しなければ、ボランティア行為も存在しない。

人は、人の為に、何かをする時、力が湧いてくるというのが、人類発生の時から、学習していったことである。

そして、それが、皆、我が身に返ってくることを、知っていた。
それが、褒美である。

精神的褒美を多く言うが、色々な褒美がある。

例えば、情報である。
例えば、気付きである。

すべて、我が身に返ることになる。

倫理進化学では、人間のすべての行為を、利己的であると、説く。
全く、その通りである。

結果は、すべて、我が身に尽きるのである。

話は、まだまだ、あるが・・・



posted by 天山 at 06:11| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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