2014年01月08日

国を愛して何が悪い113

義は武士の掟中最も厳格なる教訓である。武士にとりて卑劣なる行動、曲がりたる振舞いほど忌むべきものはない。
新渡戸

だが、
義の観念は誤謬であるかも知れないーーー狭隘であるかもしれない。
と、言う。

そこで、武士である、林子平は、これを定義して、決断力と言った。

義は勇の相手にて裁断の心なり。道理に任せて決心して猶予せざる心をいうなり。死すべき場合に死し、討つべき場合は討つことなり。


節義は例えていわば人の体に骨あるがごとし。骨なければ首も正しく上にあることを得ず、手を動くを得ず、足も立つを得ず。されば人は才能ありとても、学問ありとても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば、不骨不調法にても、士たるだけのこと欠かぬなり。
真木和泉

仁は人の心なり。義は人の路なり。
孟子

であるから、武士が義を行なう、その姿をもって、義士とも、言う。
赤穂浪士は、義士と、呼ばれた。

新渡戸は、そこから、義理の話に移る。

義理という文字は「正義の道理」の意味である。

易経では、義理とは、哲理のことを言う。
道理の道、哲学のことである。
更に易占では、数理を重んじる。

義理を正義の道理とは、正に、武士道のための言葉である。

そして、
義理は単純明瞭なる義務を意味した・・・
と、言うことになる。

したがって我々は両親、目上の者、目下の者、一般社会、等々に負う義理ということを言うのである。これらの場合において義理は義務である。何となれば義務とは「正義の道理」が我々になすことを要求し、かつ命令するところ以外の何ものでもないではないか。「正義の道理」は我々の絶対命令であるべきではないか。
新渡戸

それでは、正義とは、何か・・・
それに関しては、何も書く事が無い。

正義は、永久にして、正義であるところのものをもって、正義なのである。
つまり、伝統として、当たり前の感覚を持つに至ったものということである。

これが、西欧の思想ならば、正義について、閑々諤々の議論がされるだろう。
特に、キリスト教の神学により・・・
また、多くの西欧の哲学者が、それらを説いた。

新渡戸は、キリスト教徒であるから、そこには、キリスト教、及び、西欧の思想の対比があるが、それも、肯定して、語る。
それについては、主旨ではないので、省略する。

欧米では、神の存在から、すべてが始まる、哲学がある。
思想も、そうである。
神に対座しての、哲学であり、思想である。

日本には、そのような根本的対決の哲学、思想が無いという、日本の思想家もいるが・・・
必要無いのである。

善悪という、対比によって、考える日本の伝統は無い。

日本の伝統は、神と悪魔という、対立は無い。
人間にマイナス要因を与える、自然の行為も、荒ぶる神と言い、鬼も神の世界のものである。

義理の本来の意味は義務にほかならない。
新渡戸

更に、義理という語のできた理由は次の事実からであると、私は思う。
と、新渡戸は、言うが・・・

義理は、元々、易経の言葉である。

だが、日本では、
すなわち我々の行為、たとえば親に対する行為において、唯一の動機は愛であるべきであるが、それの欠けたる場合、孝を命ずるために何か他の権威がなければならぬ。そこで人々はこの権威を義理において構成したのである。
新渡戸

これは、英文で書かれたもので、更に、その日本語訳は、同じくキリスト教徒の、矢内原忠雄であるから、愛、という言葉が出る。

当時の日本人は、愛という言葉の、観念を仏教に負うゆえに、愛とは、執着する心になる。

欧米人に武士道を伝えるために・・・
愛という、キリスト教の言葉が出るのである。

でなければ、情という言葉になるはずである。
義理、人情も、情の感覚的世界である。

だが、そこで、武士道における、義理を義務とし、義理の権威を形成したというのである。

そこで、新渡戸が、説明するに、
愛が徳行を刺激するほど強烈に働かない場合は、人は知性に助けを求めねばならない。
と、説く。

そして、理性を動かして、義しく行為する必要を知らしめるのである。

同じことは他の道徳的義務についても言える。
新渡戸

義務が重荷と感じられる時は、義理が介入して、それを避けることを、妨げる、と言う。

そこで、
義理は道徳おける第二義的の力であり、動機としてはキリスト教の愛の教えに甚だしく劣る。
新渡戸

つまり、キリスト教の、愛は、道徳的に上位にあるという。

愛は「律法」である。
新渡戸

これは、新教キリスト教の教えである。
説明は、避ける。

義理は、人為性のため、時を経るに従い、堕落したらしい・・・

もし鋭敏にして正しき勇気感、敢為堅忍の精神が武士道になかったならば、義理はたやすく卑怯者の巣と化したであろう。
新渡戸

スコットが愛国心について「それは最も美しきものであると同時に、しばしば最も疑わしきものであって、他の感情の仮面である」と書いていることを、私は義理について言いうるであろう。
新渡戸

つまり、様々な、感情の仮面が、義の仮面で覆うことが、出来るということだ。

更に、それに気付かずにある場合は、最悪である。

それでは、勇・敢為堅忍の精神とは・・・




posted by 天山 at 06:21| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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