2014年01月05日

国を愛して何が悪い110

新渡戸は、武士道の淵源を語るに、仏教から、はじめている。

運命に任すという平静なる感覚、不可避に対する静かなる服従、危険災禍に直面してのストイック的なる沈着、生を賤しみ死を親しむ心、仏教は武士道に対してこれらを寄与した。
新渡戸

確かに、そのようである。

剣の達人、柳生宗則但馬守は、その門弟に、極意を教えた後、これ以上の事は余の指南の及ぶところではなく、禅の教えに譲らねばならない、と、言った。

この、禅は、剣の道に実に、貢献したといえる。
禅とは、
言語による表現の範囲を超えたる思想の領域に、瞑想をもって達せんとする人間の努力を意味する。
新渡戸

という、ことだ。
言葉遊びの禅ではない。

禅は、それゆえ、行為を重んじる人たちに、支持された。

例えば、茶の湯である。
その心の、置き所を確たるものにする。

言語を超えるとは・・・
それは、行為にある、心得である。
そして、それは、また、百人百様の様がある。
つまり、己で、知る世界であるから、人に云々と、解かれても、如何ともし難いものである。

職業宗教家の、禅は、論外である。
つまり、瞑想なのである。

その瞑想をよくする者は、行為者である。

新渡戸は、
私の了解する限りにおいては、すべての現象の底に横たわる原理、能うべくんば絶対そのものを確知し、かくして自己をばこの絶対と調和せしむるにある。
と、言う。

そして、それは、一宗派の教義以上のものである。

絶対の洞察に達したる者は、現世の事象を脱俗して「新しき天と新しき地」とに覚醒するのである。
新渡戸

キリスト教徒でも、瞑想は、必要である。
黙想とか、気付きの沈黙の行為とか・・・

しかし、白人キリスト教徒は、その言語の頼ることに慣れて、兎に角、言語での説明を求めるゆえに、東洋の瞑想を理解するのは、至難の業である。

禅の瞑想は、インドのヨガから、発展したものであるが、日本にて、更に、その瞑想を推し進めた。
それは、宗教者以外に、特に支持された傾向がある。

武蔵は、最後に、剣を取らずに、相手に勝つことを、説く。
その境地にまで、達するのである。

それは、死を恐れることのない、絶対的境地を得るからだろう・・・
と、簡単に書けるが・・・

現代の物質文明の中にあっては、それを理解するのは、不可能に近い気がする。

次に、新渡戸は、仏教が、与えなかったものを、神道が供給したと、言う。

神道の教義によりて刻みこまれたる主君に対する忠誠、先祖に対する尊敬、ならびに親に対する孝行は、他のいかなる宗教によっても教えられなかったものであって、これによって武士の傲慢なる性格に服従性が賦与せられた。
新渡戸

ここに神道を見た、新渡戸は、実に賢い。

何故なら、神道では、そのようなことを、言挙げしないのである。
しかし、無言のうちに、それを伝えていたということである。

その、所作に、それを伝えた神道の業である。

新渡戸の、武士道という、語り尽くせぬ源流を、ここに置いたことは、正解である。

彼は、キリスト教徒である。
故に、実に、キリスト教徒に対して、説得力がある。

神道の神学には「原罪」の教義がない。
新渡戸

神道には、神学など無いし、必要としない。
しかし、あえて、神学と書くところは、キリスト教徒を意識してのことである。

人の心の本来善にして神のごとく清浄なることを信じ、神託の宣べらるべき至聖所としてこれを崇め貴ぶ。神社に詣ずる者は誰でも観るごとく、その礼拝の対象および道具は甚だ少なく、奥殿に掲げられたる素鏡がその備え付けの主要部分を成すのである。
新渡戸

鏡のみ・・・

それは人の心を表わすものであって、心が完全に平静かつ明澄なる時は神の御姿を映す。
新渡戸

つまり、偶像礼拝ではないのである。

この故に人もし神前に立ちて礼拝する時は、鏡の輝く面に自己の像の映れるを見るであろう。かくてその礼拝の行為は、「汝自身を知れ」という旧きデルフィの神託と同一に帰するのである。
新渡戸

この、汝自身を知れ、とは、道徳的性質の内省たるもの。
つまり、神道の礼拝の根幹は、それ、己の道徳的性質の、内省、というのである。

これほど、明確に、神道の参拝を説明したものはない。
鏡に映る、我が道徳の姿を観る。

この道徳を、大和言葉で言えば、神ながらの道、かんながらのみち、となる。
唯神道、である。

新渡戸の、武士道は、見事な日本論である。




posted by 天山 at 07:08| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。