2013年12月12日

霊学136

アストラル体とエーテル体が肉体とは別の、いわば形而上学的な、神々の法則にしたがっていた時代、つまり、アトランティス時代は、記憶力が大きな広がりを持っていた。

後アトランティス時代になり、特にその第三期のころは、神々の法則に従う、自我、アストラル体と、地上の原則に従うエーテル体、肉体とに、はっきりと分かれてゆく。

当時の人間は、自分という場合、集合的性格をもった自我とアストラル体を自分と考えて、その部分が働いている時に、私というものを、意識した。

そして、第四期の中国期、ギリシャ・ローマ期以降、現代に至るまで、自我は、ひたすらエーテル体と肉体を、志向するようになった。

つまり、生きるということは、肉体と、エーテル体を快適な状態にすることになった。

太古の時代には、「私」はエーテル体とではなく、自我やアストラル体とひとつだったので、自分を生かすためには、肉体やエーテル体は死んでもかまわなかったのです。
高橋

しかし今の人間は逆に、肉体とエーテル体が滅びれば、自我も滅びると考えています。環境破壊の問題がどのようにしてはじまったかといえば、おそらく人間の自我がエーテル体と肉体とを志向するようになったところからだと思うのですけれども、そこにはやはり大きな歴史の必然性が働いているようです。それをどう考えたらよいのでしょうか。太古の意識を取り戻せばよいのでしょうか。それとも今の意識の方向をもっと徹底させればよいのでしょうか。
高橋

今の意識を、徹底させれば・・・
どんな結果になるかは、解っているのである。

現代は、決定的な分岐点にあるという。

つまり、「時間的な記憶の意識」が再び、「別の記憶の文化」に、移り変わる過程を辿る。

高橋氏は、
もはやそのままでは破滅の方向にしかいくことができず、なんとかして、ふたたび生命に対する畏敬を基調とした新しい文化を生み出さなければならなくなりました。
と、言う。

シュタイナーの言葉を、そのまま受け容れると、そうなるが、簡単に言えば、西洋式の考え方、また、白人主義のやり方では、後が無いという言い方も出来る。

現代の人間が自分の意識を変革させるためには、自分の行動のさまざまな部分を、自分が行なっているのではなく、自分の内部のアストラル界で、死者や動物の霊やあるいは霊界の崇高なヒエラルキアの神々が働いて、自分をつき動かして、そのような行動させている、という認識に到達しなければなりません。
高橋

それを、意識出来るか、否かである。
しかし、意識しなくても、歴史の必然的動きに従う他に、術は無いだろう。

アトランティス時代から、云々と、分析してきたシュタイナーが、ここで、指し示す何かがあるのだろうか。
また、歴史の必然性によって、流れてゆくのだろうと、思うが。

日常生活の中で、自分以外のなにか目に見えない力に自分がつき動かされているという実感、それを自分の中に持って生きることが、新しい意識を獲得する道に通じるのだと思います。
現代はそういう大きな過渡期にあるので、地上の現実原則だけに自分を適応させないで、手探りで出会えるような、別な世界にも心を向けていくことが、私たちに課せられている歴史の課題なのではないでしょうか。
高橋

実に、穏便に語るが、これでは、宗教の教義と変わらない。

別な世界にも、心を向けることは、大切なことであるが・・・
それを、シュタイナーからだけ、得るというのは、おこがましい。

勿論、シュタイナーの考え方を取り入れることに関して、否定する事はない。

そのような一つの、考え方があるという、ことである。

これで、シュタイナーを終わる訳にはいかないので、シュタイナーの見た、霊界について、少し、俯瞰したいと思う。

シュタイナーの原文を使用する。
その翻訳も、案内頂いた、高橋巌氏の、訳である。

霊学であるから、その根本である、霊界の姿をシュタイナーは、どのように見たか、である。

その著書は、シュタイナー選書、第二巻、いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか、である。

そこには、霊界参入の三段階、神秘修行の諸条件などがあるが、その中の、霊界参入が与える諸影響から、見ることにする。

霊界を描いたものは、スエンデンボルグのものや、日本でも、異境防備録などがあるが・・・

それらは、霊界の一部である。
霊界のすべてを描いたもの・・・・
それは、不可能である。

ある一部の霊界の様を見て、書かれたものである。

ちなみに、西洋には、優れた霊界に関しての文献、考え方があったが・・・
それらは、すべて、カトリック教会によって、異端として退けられ、消滅してしまった。

ただ、その中でも、インド、ペルシャを通して、伝えられたものもある。
何せ、ギリシャ思想も、イスラム帝国から、西洋は、逆輸入したのであるから・・・

ただし、キリスト教の正典とされる、聖書の中には、それらの秘儀が、隠されているものもある。

原始キリスト教と、その後の、キリスト教は、全く別物と考えた方がいい。

西洋は、キリスト教に象徴されるように、都合のよいものだけを、教義として掲げた。そこに、白人主義という、傲慢がいつも、付きまとうのである。
極論を言えば、西欧から出たものは、ロクなものがないのである。



posted by 天山 at 06:25| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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