2013年11月06日

神仏は妄想である。448

初期キリスト教会の様は、驚くべき、多様性に溢れていた。

イエスに端を発し、パウロが解釈を加え、中世の教会を経て、現在に至る・・・
そんなものではない。

イエスと、その使徒の教えを正しく継承しているという、集団は、数多存在した。

その一つに、エビオン派がある。
彼らは、改宗した、ユダヤ人の一派である。

ユダヤ人らしくあることに拘り、ヘブライ語の旧約聖書に記される、神がモーゼに与えた律法を、守った上で、イエスは、世界を救うために、神から遣わされたメシアであるとの、考え方だった。

おそらくこの一派は、「使徒言行録」に描かれているイエスの最初の信者たちに倣い、自ら進んで貧しい暮らしをしていたと思われる。
アーマン

最初の信者の精神的な後継者を称し、イエスへの信仰は、ユダヤ教との決別を意味するものではなく、ユダヤ教を、正しく理解することにあると、考えていた。
私から言うと、真っ当な、集団である。

イエスのユダヤ教徒としての、考え方を引き継いでいるのである。

彼らにとって、ユダヤ教とは、シナイ山で、神がモーゼに示したものだった。

イエスの兄弟、ヤコブや、後世のエビオン派は、イエスは、ユダヤの律法を実現すべく、ユダヤの神によって、メシアになったと、みなしていたのである。

従って、イエスに従おうとする者は、誰もが、ユダヤ教徒でなければならなかった。

異教徒が、改宗した場合は、割礼を受ける必要があると、求めていた。

しかし、パウロ違う。
彼らとは、正反対である。

パウロは、イエスは、万人の神であり、イエスを信じる異教徒は、ユダヤ教徒になる必要は無いのである。

パウロは、律法を守っても、神に正しく向き合うことは、出来ないと説く。
更に、救われることも無い。
最終的に、パウロは、この論争で勝利したが・・・

その後も、パウロに異議を唱える集団が、何世紀もの間、絶えることがなかったのである。

だから、彼らにとって、パウロは、偉大な使徒ではなく、信仰の何たるかを誤った者として、見た。

更に、エビオン派は、イエスの神性を否定していた。
彼らにとって、神は唯一神だった。

イエスは、メシアとして、神に選ばれた人間である。
彼は、処女から生まれたのではなく、ヨゼフとマリアの子で、神が息子として、認めた。
そして、人々の罪を救うため、十字架での、死を引き受けたというものである。

彼らは、新約聖書を読まなかった。
つまり、まだ、新約聖書は、書かれていなかったのである。

エビオン派が持っているのは、ヘブライ語聖書と、自分たちの考えを裏付ける聖なる書物だった。

その中には、処女懐胎が抜けた、現在の、マタイに近い、福音書が含まれていた。

マタイの福音は、聖典福音書では、最も、ユダヤ的なものである。

後に、彼らは、異端として、退けられる時期がくる。

余計なことを言えば、パウロが、最悪のキリスト教徒だった。
イエスは、パウロによって、捻じ曲げられた。
その、パウロの教えを、教義としているのが、カトリックである。

正統と言うが・・・
正統というなら、エビオン派のことであろう。

エビオン派と、対極にあったのが、マルキオン派である。
この一派は、二世紀に、小アジアで生まれた。
著名な説教家で、神学者だった、マルキオンに追従する人たちの派閥である。

マルキオンは、ローマで数年間過ごしたが、教会から追放され、小アジアへ戻り、数多くの教会を建てた。

マルキオンは、パウロを、イエスや、イエスとユダヤの律法の関係を正しく理解する、信仰深い偉大な英雄として、評価した。

つまり、モーゼによる、律法は、救いをもたらさず、イエスによる、福音こそが、それを可能にするというもの。

律法と福音を明確に、区別したのである。

更に、旧約聖書の神と、イエスの神は、別物である。
前者は、憤怒と復讐心に燃えた、審判の神であり、イエスの神は、愛と慈悲に満ちた救いの神である。

イエスの神は、イスラエル、律法とは関係なく、旧約の神から、人々を救うために、この世に介入した。神の怒りを一身に受けたイエスが、十字架で死ぬように計らうことにより、救済をもたらしたという。

イエスを信じる者は、ユダヤの神の報復を免れることが出来る。
そして、イエスは、人間ではない。
彼が肉体を持つということは、創造主の被造物となるからである。
マルキオンは、イエスは、外見上は、人間の姿をしていたが、実際には、純然たる、神性を有する存在であるとする。

イエスの信者は、イエスを理解していた、パウロにのみ、従うべきであると・・・

彼の聖典は、十通のパウロの書簡と、一種のルカの一部を使用していた。
旧約を福音書から見て、改竄されたものとの認識で、自分の聖書を作り上げた。
マルキオンの聖典は、イエスと創造主である神とのつながりを示す記述を、すべて、排除したのである。

兎も角も、こうして、キリスト教の初期は、それぞれが、それぞれで、作り上げていったものである。

人間の、迷いの様が、うかがい知れる。
正統、異端というものも、結局、為政者、政治的権力により、介入され、作り上げられるものなのである。

人間とは、愚かな者である。




posted by 天山 at 06:57| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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