2013年11月05日

神仏は妄想である。447

世の、クリスチャン、キリスト教徒は、聖書を聖典として、受け入れている。
だが、聖典とは、何か・・・

教会、最初は、ローマカトリックが、定めたもの。
それを、プロテスタントも、使う。

しかし・・・
本当に、聖典という意味があるのか・・・
誰が、聖典として、選んだのか・・・

聖書には、多くの外典がある。
何故、聖典にならなかったのか・・・

更に、どうして、単に、教会が、選んだものを、聖典として、受け入れているのか・・・

つまり、それを問い詰めると、信仰が、揺らぐ。

仏教になると、更に、酷いのである。
それぞれの、宗派により、聖典が違うという・・・

問題の大きさからいえば、私たちが、神の啓示の言葉がどのようなものだったのか分らないことよりも、聖書に記された言葉が、神の啓示だと考えることのほうが深刻だ。加えて、神が、現在私たちの手元にある聖書を、本当に聖典として認めたかどうか、知ることもできない。正しい文書だけが聖書に収められていると、どうして言えるだろうか? 神から霊感を授けられた書など、他には存在しないと、どうして断言できるのだろうか?
アーマン

聖書が、昔から、今の状態にあったことは、無い。
事実は、どの文書を聖書に入れるかを巡り、実に長く激しい論争が、繰り広げられたのである。

そして、世界中のすべての教会が、最終的な合意に達したことは、ただの一度も無いのである。

新約聖書の、27からなる書が、聖典とされたのは、16世紀の宗教改革に対して開かれた、トリエント公会議まで、いかなる公会議によっても、承認されたことは無い。

この公会議は、旧約聖書外典を、旧約聖典から外そうとする、プロテスタントの運動に対抗して、同時に聖典に入れることを、決定した。

もし、プロテスタントが、現れなければ・・・
今も、決定した、聖書は無かった。

更に、驚くべきは、ユダヤ教の聖典である、旧約聖書を、キリスト教の聖典とする、根性である。
今なら、著作権侵害の、何物でもない。

前回も書いたが、ユダヤ人は、聖書解釈を誤っている・・・
などという、屁理屈をつけて。

ユダヤ王国が、崩壊した時点で、すでに、イスラエルの神話は終わり、その伝承も、終わったのであるが・・・

神に選ばれた民などは、この世に存在しない。

ところが、イエスを信じて受け入れる、キリスト教徒が、神から、選ばれた民となったという、屁理屈である。

その、イエスは、ユダヤ教だった。

さて、
奇妙なことに、聖典は、ある時点ではっきりと採択されることなく、誰が決を採ったわけでもないのに、出現したのだ。
と、アーマンは言う。

それは、当時、キリスト教集団が、現実的で、切羽詰った状況が、聖典の論争を激しくしていた。

要するに、教会の成立後、あまたの集団が、竹の子のように、多種多様にして、混在していたということである。

更に、それらの集団は、最も根本的な問題について、全く異なる主張を展開していたのであるから、統一など出来ないのである。

例えば、
神は何人いるのか・・・
イエスは人間か・・・
そして、神性を有するのか・・・
この物質世界は、善なのか、悪なのか・・・
救済は生きた人間に訪れるのか、肉体を脱したことによって、得られるのか・・・
イエスの死は、救済と、どのような関係にあるのか・・・

全くもって、その疑問自体が、妄想なのであるが・・・

イエスの死後、150年も経ると、我こそが、イエスと使途たちの教えを正しく継承しているという、キリスト教集団が、乱立した。

現在、教会で、聞く説教は、本当は何の根拠のないものかもしれないのである。
更に、イエスの教えとは、遥かに遠い。

イエスは、キリスト教の、開祖ではない。

ナザレのイエスは、存在するが、イエス・キリストは、存在しないのである。
後世の人たちで、その妄想により、作り上げられたもの・・・
それが、イエス・キリストであり、キリスト教である。

だから、嘘なのである。
大嘘である。

それでは、初期キリスト教集団の、それらを紹介しつつ、その嘘を丁寧に見て行くことにする。

ナザレのイエスは、ユダヤ人であり、アジア人である。
決して、白人ではない。
更に、ユダヤ教徒であり、旧約の神の契約である、メシアの出現と、神の歴史への関与を、待っていた一人である。

イエスも、信者の一人。
そして、ユダヤ教に騙されていた一人である。




posted by 天山 at 06:33| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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