2013年10月10日

神仏は妄想である。441

ヨハネの福音書に関して・・・

学者は、長年この疑問に頭を悩ませてきた。そして、ある種のコンセンサスが、過去25年から30年のうちに、「ヨハネ」の解釈者の間で出来上がった。このコンセンサスは、新約聖書の解釈で世界的に有名な二人の大家が、20世紀末に提議したものである。
一人はプロテスタント、もう一人はローマン・カトリックで、どちらもニューヨークのユニオン神学校で教鞭を執っていた。
この二大巨頭、すなわちJ・ルイス・マーティンとレイモンド・ブラウンは、イエスの神性を強調している「ヨハネ」のキリスト論が、この福音書が書かれる以前に、ヨハネの属していたキリスト教共同体の仲間内で変化したキリスト観を踏襲しているのだと主張した。こうした変化は、この共同体の社会的経験の影響を受けていた。
アーマン

共同体であるために、自分たちにまつわる、伝承を有していたということである。
共同体は、同一の物語を共有している。
物語が、語られる手法は、当該の共同体に起きた、出来事と、連動しているのである。

さて、ヨハネの特徴である。
イエスの神性を、ことさら強調するのとは、対照的に、キリストが、全く、人間的な言葉で、語られているということである。

それを、高いキリストと、低いキリストと、呼ぶ。

低いキリストは、全く神性を感じさせず、地上での使命を果たすために、神によって、選ばれた人間である。

高いキリストは、その冒頭にあるように、高いキリストを書き付ける。

マーティンとブラウンは、人間味溢れる言葉でイエスが描かれている箇所は、福音書が、具現化している、最古の言い伝えであり、高められた存在としてのイエスは、後世の産物だと、考えた。

高いキリストは、彼らの共同体が、体験した経験を通して、イエスが、この世のものではなく、神の世界に属する者だと、考えるようになった。

ヨハネの共同体は、元々、シナゴーグに属する、イエスがユダヤのメシアであることを、受け入れていた、ユダヤ教の一派だった。
だが、この信仰のために、彼らは、シナゴーグを去ることを強いられた。
そして、イエスを信じる、信者からなる、共同体を作ったのである。

彼らは、自らを納得させる、必要があった。
何故、私たちは、拒否されたのか・・・

何故、家族や友人は、イエスの真実が見えないのか・・・
何故、イエスを理解できないのか・・・

そして、遂に、共同体は、共同幻想を抱く。
真実を知るのは、我々であり、他の共同体は、その真実が見えないのだ。

そして、その真実は、天から授けられたものだ。
共同体以外の人は、地上の思考に囚われている。
ヨハネの共同体だけが、この真実を獲得した。
他のすべての人間は、間違っている。

とうとう、共同幻想のとりこになったのである。
カルトに似る。

遂には、われわれには、天から降臨したものを、識別できる力がある。他の人たちは、それが、無い。

こうなると、妄想全開である。

この共同体が、シナゴーグを追われた我が身について説明するために編み出したイエス観は、どんどん高められていった。ついには、神と正しい関係を結ぶには、神が遣わしたこの者を受け入れなければならないと言い始めた。
すなわち、人は、「霊的」に新たに生まれなければならない。共同体の外部の人間は、生きてはおらず、命を得ることは、決してない。彼らは神の子ではない。彼らは悪魔の子だ。
アーマン

最終的に、ヨハネの福音書が書かれた時には、作者は、共同体で語られていた、様々な伝承を合体させた。

だから、イエスを完全なる人間とみなす本来の伝承と、彼を神とみなす、後の伝承がごた混ぜになっているのだ。かくして、イエスが神であるという思想が誕生した。
アーマン

ヨハネの共同体は、他の共同体が、イエスは神であるという道に至る、それを獲得した方法とは、異なるのである。

それぞれが、異なる道を辿る。
そこで、色々な軋轢もある。

主導権争いもある。
何せ、信じる者たちの、共同体である。
どこの宗教も、その争いが付きまとうのである。

何故か。
妄想だからである。

妄想のぶつかり合いである。
より信じる者が、頑固になり、排他的になり、非寛容になる。

ただ、政治的作為により、後に、教会として、統一されるのである。
それが悲しい。

ローマ皇帝の、一つの駒として、キリスト教が出来上がるのである。
それが、ローマカトリックである。
ローマと冠が付くのが、おかしい。

カトリックとは、公教会と、訳されるが・・・
実際は、ローマ皇帝によって、統一されたキリスト教という意味になるのである。

だが、そこに行き着くまで、初期のイエス共同体は、乱れる。
更に、非ユダヤ人の信者の獲得である。

そこに、反ユダヤという思想も、生まれてくる。
イエスは、ユダヤ教の一人の革命家だったはずだ。

イエスは、ユダヤ教の人々の中での、宣教を行ったのである。




posted by 天山 at 05:37| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。