2013年08月08日

神仏妄想である。429

古代社会においては、病気とその治療は、呪術、宗教体系の中に、包含されていた。
人間の死も含めて、病気は、ことごとく神に起因し、病気は、人間の犯した罪に対する、神的懲罰とみられたのである。

従って、病気の治療には、宗教儀礼が関与することになる。

古代イスラエルの場合も、同様である。

旧約聖書の、ヨブ記に描かれた、苦難の物語は、病気を神の刑罰とみる呪術と、宗教的観念が存在する。
ヨブの苦難は、自らの義の証しのために、自己の道徳的高潔さにかけて、こうした病気の苦難と戦わなければならなかった。

病気との対決を、自己の道徳的行為の完成によって成就しなければならなかったヨブの状況に含まれる矛盾は、どうにも否定しようがない。
山形孝夫

ヨブ記では、試す神の素顔が見えるのである。
実に、いやらしい試みである。

このようなう観念に染まる、イスラエル人の感性を、中々理解できるものではない。
旧約聖書には、忌むべき、諸々の病気に対する、厳格な戒律が定められていた。

特に、治療の手立てのない恐るべき病気については、不可触の禁忌が適応されていた。
重い皮膚病は、その筆頭である。

レビ記には、延々として、それらの説明が続く。

古代イスラエルは、一連の医療行為、検診、診断、治療、隔離、社会復帰の許可を、すべてユダヤの最高法院を通して、祭司の手に委ねていた。

こうした祭司の職能は、厳密に魔術師や呪術師から、区別されていた。
女呪術師を生かしておいてはならない。出エジプト記
男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪に当たる・・・ レビ記

治癒権の行使に関わる、正統と異端の規定である。

禁止事項があるということは、当時そのような者が大勢いたという証拠である。

そこで、新約聖書のイエスの言動である。
この旧約の背景からすると、福音書に描かれるイエスの驚異的病気治しは、ユダヤの最高法院に対する、無謀な挑戦である。

ここから、新約聖書の話題に入る。

イエスの病気治しの話は、マルコ、マタイ、ヨハネを通して、115の癒しの話が記録されている。
奇跡物語である。

だが、イエスが、本当に、奇跡的な病気を治したのかは、不明であり、更には、奇跡はなかったとする説も多い。
何故、福音書では、奇跡物語が多いのか・・・

また、その弟子たちも、不思議な方法で、病気治しを行っている。

更には、最初の教会が、病気治しを起こったという事実は、疑問の余地はない。

ここで、山形氏は、
イエスがガリラヤの村々を遊行し、病人に癒しの手をさしのべられたという福音書の記述は、イエスの弟子たち、あるいは初代教会が、村々を巡り、イエスの名によって病気をなおしたという事実とひとつに重なっている。
と、指摘する。

最も古い、マルコの福音では、弟子たちは、杖一本のほかには、食べ物も、銭も持つことを許されず、ただ病気を癒す権威、悪霊を制する権威を与えられて、出たと書かれている。

弟子たちの使徒権と、治癒権は、切り離し難く結合されていた。

つまり、福音書の作者たちによる、作為ある物語となるのである。

それが、古代オリエント宗教史における、治癒神の系譜が伏線にある。
新しい、治癒神として、イエスが登場したのである。

さて、祭司の権威のないイエスの、病気治しについて、福音書には、それを告発するものがない。

何故、ユダヤのパリサイ派の人たちや、律法学者が、告発しなかったのか。

あるのは、ただ、安息日に、中風の癒しをしたということである。
それも、癒しについてではなく、安息日に、行為したということに、対してである。

癒しの行為に対しての、咎めが無い。

更には、律法学者たちの告発は、癒しにではなく、イエスの語る言葉に、神に対する冒涜があるとするのである。

そこに、当時の特異な状況があったといえる。

ユダヤ教律法学者の口伝・解説集である、タルムードに、それがある。
イエス時代のラビたちは、魔法や呪術に寛容であった。
彼らも、好んで、奇跡を起こしたのである。

ユダヤの民衆は、こうしたラビたちの不思議な力に喝采し、奇跡にまつわる伝説を、ラビたちの生涯の事績に織り込んで、物語を作成した。

福音書も、タルムードと同じである。

新約聖書は、イエスの驚異の奇跡を語ることによって、まさに、その起源を語っているのである、と。
山形

勿論、ラビたちは、魔法ではなく、旧約聖書にある、神の不思議な業が、現実に起こりえることを、証明したのであるという、研究者もいる。
そして、イエスの行為も、同様であると、いう。

だが、それでは、収まらない。

イエスの奇跡の、魔術的性格は、明らかに、旧約聖書から逸脱する。

特に、悪魔祓いにおいて・・・
マタイにある、悪霊に取りつれた者が二人、墓場から出てきて、イエスに言う。そして、イエスは、悪霊を豚の中に入れると、悪霊が豚に入り、皆崖を下り、湖に入り、死ぬ。

イエスの言葉は、魔法の呪文のように、不思議な力を発揮する。

悪霊祓いは、ラビ文学にも、顕著に見られる。

そこで、当時は、悪霊憑きの治癒物語が、定型的様式を備えた文学として、広く民衆に流布していた結果による。
福音書も、ラビ文学も、それを利用したのである。

奇跡物語が、日常的な状況・・・

福音書も、それに添って書かれたものとなる。
特別なことではないのだ。

一番古い福音書である、マルコは、イエスの死後、35年ほど後に、書かれている。
後々、じっくりと、マルコの説を見るが・・・

イエスを、キリストにするために、書かれたもの・・・それが、福音書である。

歴史的、地政学的・・・文学的に見れば・・・
聖書は、どのようなものなのか。

新約聖書が、旧約聖書の、予言を引き続き、引き受けるものとの意識の上に、書かれ、更に、それが、初期ユダヤ人イエス教団から、ローマ帝国の宗教になり・・・

ユダヤ教から、別にして、キリスト教へと進んだ歩み。
人間の作為なくして、考えられないのである。

作為とは、何か。
それは、支配者、為政者によって、都合の良いものになること。
更に、宗教団体として、都合の良いものになるもの、である。



posted by 天山 at 05:01| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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