2013年08月03日

霊学113

いったい人間という、肉体においても魂においても矛盾だらけの存在が、どういう意味で個体という統一体と考えることができるのか。それぞれの部分が互いに矛盾している中で、いったい人間とは何か。あらためてこの点を考えていく過程で明らかなことは、現在われわれが人間として、この瞬間に生きている存在の仕方そのものが、決して本来のありうべき状態にあるとはいえない、ということではないかと思うのです。
高橋巌

そして、
自己反省ではなく、自己実現もしくは自己変革の観点からとらえていかないと、人間を認識したことにならないという感じがする・・・
と、言う。

それでは、魂と、霊との区別である。
これは、あくまでも、神秘学というものからの、提言である。

魂とは、自我の働く座である。
そこにおいて、自我が自己をあらわすことのできる領域だという。

実に具体的である。
だから、魂が、外なる対象に対して、自分、自我にとって、プラスかマイナスか、共感が持てるか否かの反応をする。

共感の持てるものには、広がり、持てないものには、退く。

霊というものは、何か・・・
スピリット・・・

スピリットを何らかの実体を持った存在と考える場合は、学問では、価値の総体として捉えてきた。
特に、文化価値の総体をスピリットと名づけた。

精神科学という学問では、精神というのは、人間が文化的な活動を通して、作り上げてきた価値、つまり、歴史が創造した価値の総体として理解した。

精神分析という場合の精神は、魂のことになり、魂を精神分析では、精神という。

魂の共感と反感をめぐる諸機能が正常に働かない場合、精神病となるのである。

神秘学にとって、スピリットとは、目的と愛の根拠であると、いう。

魂が或る目的を実現しようとして働く場合、その魂のあり方の中に、霊的な働きがあると考えます。同じように、性愛の意味の情動作用とは別に、人間が自分自身以上に他者を大切にし、その他者の中に自分が帰依しようとする働きを持つ場合、そこにも霊的な愛の働きがあると考えます。この意味では霊とは何かを考える学問、つまり「霊学」は、神秘学のもっとも重要な部分です。
高橋巌

ここで、整理すると、内界の部分に霊的な世界があり、外界の部分に体的な世界があり、その内的な霊界と、外的な体の世界、物質界との間に、魂が色々な働きをしている。

これが、欧米の神秘学、霊学の考え方である。

私が理解している、魂の世界は、体と、霊の核になる存在である。

であるから、体、心、霊、魂と、深くなってゆく。
心は、精神分析で扱う場所と理解する。

神秘学でいうところの、魂の働きは、心であると、私は理解する。
それでは、それを説明すれば、いいのか。
違う。

兎に角、この神秘学を通って行かなければならないのである。

そして、神智学である。

それを批判する形で、私の、霊学を説明するべきなのである。

日本の霊学の場合は、復古神道により、語られたが、あまりにも、道教色を帯びていて、説明に混乱をきたすのである。

道教については、別エッセイ、神仏は妄想である、の中で充分に語っている。

高橋巌氏の、神秘学講座から、順に説明していく。

魂についての、説明である。
そこでまず感覚的知覚とは何かということを考えた場合、当然問題になるのは、感覚的知覚が、外と内との間の境域をあらわしているということです。・・・
この境界の外側には外的な世界があり、内側には内的な魂の世界があり、その境目に感覚的知覚があると考えられます。
そこで大切なことは、感覚的知覚を肉体だけでは決して生じさせることができないという事実です。
もしふつう知覚心理学で考えているような肉体の働きだけで知覚活動、あるいは知覚の像があらわれることができるとしたら、どういうことになるでしょうか。

大脳生理学とか知覚心理学の専門家にきいても、大脳の中枢に達するプロセスまではわかるのですが、それが像として意識できる意識化のプロセスがどうなっているのかということになると、それはまったくわかっていない謎の部分なのです。
高橋

肉体の組織だけを取り上げて、その構造から、感覚的知覚を説明するものを、取り出そうとしても、無理なのである。

体のプラス何かが、感覚的知覚に加わっていなければならないが、それが何であるのか、全くわかっていないのである。

その部分を、神秘学で言うと、魂ということになる。

体と魂によって、感覚的知覚が、成り立つと考える。
だが、魂は、目に見えない存在である。

余談である。
言葉の解釈や、翻訳の場合の問題もあると、思う。
例えば、心理という場合は、ドイツ語のガイスト、英語のスピリットは霊であり、精神となり、魂は、ドイツ語では、ゼーレ、英語では、ソウルであるが、魂と訳す。
ガイストもスピリットも、精神とも、心とも訳される。
レーゼ、ソウル、マインドも、精神とも心とも訳されている。

先に、私は、体、心、霊、魂と、言ったが、精神は、また別物で、脳による思考を言うのである。

二分説に立つと、精神と心を曖昧にせざるを得ない。
だから、三分説に立つというが・・・

三分説だと、霊と、魂を区分けて考える。
すると、私の場合は、四分説になり、更に、脳の働き精神をいれると・・・
だが、精神と、心は、微妙に接しているのである。

矢張り、書き続けてゆくしかない。




posted by 天山 at 06:16| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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