2013年07月09日

神仏は妄想である。426

士師記の作者が、告発し、弾劾するのは、沃地文化におかされた、多神教化したヤハウェ主義であり、バァール主義である。

バァール主義化した、ヤハウェ宗教・・・

これが、イスラエル王国結成に踏み切った際の、イスラエルを揺るがす、大きな問題となる。

士師時代に続く、ダビデ、ソロモンの時代である。
イスラエル史の絶頂期である。

その時、カナン宗教の本質である、神―王、というイデオロギー、つまり、王を神と同一視するという信仰体系が、現れる。

それをイスラエル宮廷が、真っ先に受け容れたのである。

ヤハウェの忠誠は衰え、いたるところで、階級の分裂と、対立が起こる。
ヤハウェ共同体は、虚像化し、更に、南北に王国が分裂して崩れ始めるのである。

イスラエルの黄金時代は、ソロモン一代で、終結する。
つまり、イスラエルの終わりである。

私は、ここで聖書の歴史が一端、終わったと見るものである。

その後、預言者といわれる人たちが、様々な警告を発するが・・・
それは、別物である。
ユダヤ教の発生を促すものになると、考える。

その預言者たちが、攻撃したのが、バァール主義的ヤハウェ主義である。

イザヤ書になると、現実の王に対する失望と、理想の王、救世主―メシアへの希望となり、表現される。

それが、新しい契約、という望みとなる。
ここで、山形孝夫氏が、名文を書いている。

こうした預言者たちの徹底したバァール神批判は、文化史的にみた場合、カナンの農耕文化の基本原理にたいする挑戦であったということができる。天の父なる神ヤハウェを唯一の神とし、バァール崇拝の徹底的排除を叫んだ預言者の声には「豊饒の女神」「大地の母」を讃美するカナンの神々の信仰圏とは、真っ向から対立するものがある。
山形

何故、イスラエルの民は、豊饒の神、大地母神へと、思いを移したのか・・・

ここには、イスラエル民族史をつらぬく根本問題が露呈されている。砂漠の民の砂漠の宗教が、農耕文化の真っ只中で直面した問題が露呈されている。図式的にいえば、それは、沃地宗教のヤハウェ宗教化であり、逆にまた、砂漠的なヤハウェ宗教の沃地宗教化でもあった。このふたつの交錯する一本の線の上に、キリスト教成立の地平がひらかれてくる。そこに、旧約聖書から新約聖書への移行の謎がある。
山形

要するに、時代性である。
更に、時代精神である。
それは、歴史を通して、如何ともし難いものである。

神も、その時代には、適わない。

それでは、バァール神話なるものを、見渡してみることにする。
その史実的裏づけなどには、触れない。
その内容のみに触れる。

そこには、天の父なる神という、父系的宗教と、地の母なる神という、母系的宗教の違いがあると、結論から言う。

そして、人類には、地の母なる神の存在の方が、実に早く生まれたのである。
それは、寛容で、包容的である。
母なる大地と共にある。つまり、メシアの希望など必要のないものである。

バァール神話は、大きく三つに分けられる。
第一が、バァール神話、第二が、フブールの王ケレトの叙事詩、第三が、カナンの伝説の王ネダルの子アクハトの物語である。

中でも、最も問題なものは、バァール神話である。

それは、イスラエル宗教の、ヤハウェ共同体の論理を、崩壊させ得る重要なイデオロギーを秘めているのである。

バァール神話に登場する神々の多くは、カナン神話の共通の根底から派生した神々である。

エール、アシュタロテ、バァール・・・
バァールは、エールに次ぐ、最も偉大な神であり、北の果てなる神々の山の、主である。
それは、大気と雲と嵐の神であり、雷鳴をもちいて山々に、その声をとどろかせ、稲妻によって、雨を降らせる豊饒の神である。

バァールは、セム語で、主、あるいは、所有者を意味し、同じく、セム語でアドーン、主、またアドーニー、わが主と、同義語に属する。

アドニスの名は、アドーニーがギリシャ化され、固有名詞に転用されるようになった呼び名である。

だが、バァールも、アドーニーも、本来は神の名をさす固有名詞ではなく、神の本当の名を隠すための、総称的呼び名である。

イスラエルの神と同様に、神の名をみだりに口にするなという、教えであり、バァールの実の名は、ハダドである。

セム族の伝統的表現法が、共通に支配していたことが解る。

神話の特徴は、神々の死と再生が克明に描かれることである。
バァールの死と再生を巡り、展開している。

死と再生のバァールの運命の克明な描写の中には、旧約の神とは、全く異質の神々の系譜を見るのである。

山形氏は、更に、
われわれはそこに新約聖書の伝えるナザレのイエスの、死と復活の祖形をみるのである。
と、言う。

そこまで、深読みするのである。

と、すると、聖書作家たちは、様々な周辺の神話、伝承から、聖書という大作に取り組んだと見られるのである。

キリスト教では、神の霊感に導かれて書かれたものと解釈するが・・・
嘘である。

突然にして、壮大な物語は、生まれない。
それには、その昔の伝承、神話が存在するということである。




posted by 天山 at 05:57| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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