2013年05月11日

神仏は妄想である。415

さて、聖書は、世界最大のベストセラーと言われる。
その聖書は、旧約聖書と、新約聖書から成る。

ユダヤ教は、旧約聖書が、聖典であり、キリスト教は、両者共に、聖典となる。

著作権から言えば、キリスト教は、ユダヤ教の聖典を無断で使用し続けているということになる。

そして、この聖典と言われる、聖書だが、一体、誰が、何を基準に聖典としたのか・・・
解らないのである。

聖典になるべく、血みどろの戦いがあったと、言われる。

旧約聖書は、39巻、新約聖書は、27巻である。
だが、それ以外にも、外典と呼ばれるもの、偽書と言われるもの、多数ある。

その外典とか、偽書というものも、一体誰が決めたのか・・・

更に、聖典として、現在も信じられているという根拠は・・・
全く、無い。

それは、権威主義の象徴である、教会が決めたのである。

新約聖書の一部の手紙を省いて、それ以外のものは、作者不詳の口伝文学、あるいは、伝承の類に属するものばかりである。

教会は、神の霊感を受けて書かれたものという、実に、不案内なことを言うが・・・
その根拠は無いのである。

更に、教会は、聖書を、神の啓示の書と、呼んでいる。

人間の勝手な解釈である。

ユダヤ教が、現在の旧約聖書を、はじめて聖典として採用したのは、紀元前75年の、エルサレムの会議においてである。

だが、その際に、多くの文書が、外典として排除され、あるいは消滅した。

キリスト教の場合は、そもそもはじめから、聖典として書かれた文書などあるはずが無い。当時の宗教は、ユダヤ教のみである。

だが、イエスを巡る周辺に、福音文学が成立し、それがやがて、ユダヤ教に対して、明確に自己主張するように、成長した。
が、旧約聖書をそのまま、取り入れたという、驚きである。

それは、イエスを旧約の契約にある、救世主という位置づけを行ったせいである。

キリスト教の聖典結集の歴史は、紀元2世紀から4世紀に及ぶ。

ここにも、正統、異端の、血みどろの戦いがある。
であるから、言う。
外典、偽書などという者は、事実を知らない。

教会権力が決定した、聖典をそのまま、受け容れているのである。

その中に、取り入れられなかった、文書を簡単に、偽書という神経である。
それは、洗脳であろう。
更に、批判精神も無い。

権威主義的宗教支持の最たるものである。
それらを、総称して、信者、信徒という。

実際、聖書結集以前の聖書というか、文書の時代がある。
その、文書の時代を、どう解釈するのか・・・

人間は、生きるために、何かを求め続けた。
そして、求めざるを得ない状況下にあった。

特に、その風土性である。
砂漠の宗教・・・

人間の、望みが、主よ・・・と、呼ばせた時代があった。
主が、存在するという、望みにかけた人たちがいたのである。

聖書の起源とは・・・
それを説くことで、その神を妄想し続けた人間の、悲しさが見えてくる。

更に、一筋ではいかない、聖書成立の問題である。
それは、支配者、為政者の思惑である。

夢のような物語ではない。
厳しい現実を生きるために、必要とした、幻想の文書の数々。

ユダヤ教、つまり、イスラエルの宗教の起源は何か。
そして、その神に選ばれたという、イスラエルが建国したが、滅びた。
それは、どういうことか。

すでに、昔昔のお話になっているのである。
聖書の時代は、過ぎたのである。
そして、神は、存在しなかった。

神の言葉として、存在したのは、人間の幻想であり、妄想であり、幻聴だった。

旧約聖書の、モーゼ五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、そして、ヨシュア記を加えて、六書。
ここに、旧約聖書の根本主題がある。

新約聖書でいえば、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの、四つの福音書に当たる。

その聖書に大きな影響を与えた神話がある。
オリエント神話である。

旧約聖書のお話を、分析してゆくと、そこには、オリエント神話と更に、風土の問題が見えてくる。

聖書は、神の啓示ではない。
神話なのである。
神話であればこそ、理解可能になる。

そこで、混乱するのは、歴史的事実が混じるからだ。
撹乱させるのである。

また、それが聖書の魅力ともなる。



posted by 天山 at 00:03| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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