2013年04月14日

神仏は妄想である。412

人道主義的宗教においては、神は人間のより高い自己の像であり、人間の可能的な姿の、また人間がなるべき姿の象徴であるが、権威主義的宗教においては、神は本来人間のものであった理性や愛の唯一の所有者となる。
ライヒ

権威主義的宗教では、神が完全なものになればなるほど、人間は不完全なものになるのである。

人間は、すべての能力を奪われるのが、権威主義的宗教である。

ライヒは、
かれのもつ一さいの力は神に向って投射されてしまっている。この投射の機制は、マゾヒズム的屈従的な性格をもつ人間関係のうちに見出される機制とまったく同一である。
そこでは、一人の人が他の一人の畏敬し、かれは自分の力と切望とを、この他の一人に付与する。
これは、人々が、もっとも非人間的な組織の指導者たちにさえ、超人的叡智と仁とを付与するのと同一の機制である。
と、言う。

ここに、神仏は妄想である、のテーマがある。

上記のうちから、出でくるものは、必然的に、罪意識であり、神の憐れみと恵みによってのみ、初めて人間として、成り立つという、蒙昧なのである。

そして、それは、策略である。
神仏は妄想であるから、その策略は、それを作り上げた、人間の策略である。

ローマ帝国の場合は、明確に解るが・・・
その他の場合は、朧である。

どんな宗教を取り上げても、それが、存在する。
指導者、あるいは、教祖・・・
それらが、策略家である。

更には、既成の宗教を利用して、新しい宗教を創り上げて、信者、会員を増やす。

宗教にも、時代性、時代精神がある。
それに合わせて、創作するのである。

宗教というより、商売と言う方が、的を得ている場合、多々あり。

それらは、神仏などは、単なる名目であるから、どうでもいいことである。

それよりも、伝統的宗教による、人間疎外の方が、恐ろしい。

罪の意識といえば、キリスト教の原罪、浄土教の罪人意識・・・
そこから益々、深みにはまる。

親鸞の教えが、キリスト教に似るというのは、愛と慈悲の問題ではなく、罪人の意識の問題である。

親鸞の場合は、自虐ともいえるほどの、罪の意識を持つ。また、持たせる。つまり、人間を、罪意識に、縛り付けることで、生きるということの、本質に迫るが如くの感覚を抱かせる。

つまり、罪人という、酔いである。
この、酔いは、酒の酔いよりも、強いのである。

特に、思想的に、罪意識に浸らせるのを、得意とする。

カトリック、プロテスタント共に、まず初めに、罪意識ありから、始まる。

罪意識を強く持つことにより、早く、信仰の蒙昧に陥らせることが出来るからである。

神を讃美すればするほどかれは空虚になる。空虚になればなるほどかれは罪深さを感じる。罪の深さを感じれば感ずるほど神を讃美するーーーそして、それだけ自己を再獲得することができなくなるのである。
ライヒ

ライヒの分析によれば、世俗的権威と結びつくと、その宗教は、必然的に権威主義的になるのである。

本当の意味での人間の堕落とは、人間の自己自身からの分離であり、権力への屈従であり、たとえ神礼拝という変装のものにおいてさえも人間が自己自身に叛くことである。
ライヒ

ここで、人間の無意識に至る。

かれら、つまり、信仰する者は、
人間のうちにあるもっとも不合理な性向の一つである、弱小と無力とを欲する無意識の欲求にかりたてられているのだ、ということが明らかになる。
かれらは自分たちの生活の中心を、自分たちが支配できないと感ずるさまざまの力に置き換え、かくて自由と個人的責任とから逃れようとするのである。
と、ライヒは言う。

更に、このマゾヒズム的傾向と支配的傾向とが、権威主義的性格構成の二面を形づくっていることに気付くのである。
ライヒ

それらは、単に、権威主義的宗教のみならず、独裁的政治、国家、指導者等々に見られる。

それは、自分自身の意志を断念することであり、指導者、国家への、屈従を深遠な報いとして体験することになる。

つまり、幻想、妄想の世界である。

我というものを、掴みかね、我というものを、神仏に預けるという悲しみ。
神仏は妄想でありながら、それに託すという、悲しみ。

神学とか、教義などが、現れて、更にそれが、酷くなった。
すべて、人間が、創り上げたものである。

日本の、古道を思い出して欲しい。
何一つ、創り上げたものは無い。
ただ、森羅万象を、仰いで、その内に生かされて生きていると感じた、古代の人は、全うな意識を持ち、妄想に耽ることが無かった。

馬鹿馬鹿しいことに、宗教学なるものまでも興して、堕落したのである。
経典、聖典・・・その他諸々・・・

それらが、どのようにして、出来上がったのか・・・
皆々、人を支配するための、方法として、創り上げられたものである。

人間とは、あはれ、であり、弱いものであり、愚かな者である。




posted by 天山 at 05:34| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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