2013年04月13日

神仏は妄想である。411

神と人間との関係の決定的な転換は、洪水の物語に見られる。
ライヒ

それは、神が、人間の悪の、地において大いなるを見た時、地の上に人を造った事を悔いて、心憂えた。神が言う。造った人間を地の面より、払い去らせる・・・人より、獣、這う物、空の鳥に至るまで、滅ぼす・・・われはこれを造ったことを、悔いる・・・

とても、権威的、支配的である。
神話としてならば、納得するが・・・

これを、事実だと信ずると・・・

ライヒが言う。
しかしここでは、神が自分で造ったものを亡ぼす権利をもつということは、何の問題にもなっていない。神はかれらを造ったのであり、かれらは神の所有物である。
この本文は人間の悪を「冒涜」と定義するが、しかし人間ばかりではなく、動物や植物までも亡ぼそうとする決断は、何か特別の犯罪に相応した判決ではなく、自分のなした事柄がうまく行かなかったということについての、神の怒りに充ちた後悔によって引き起こされたことを示している。

全知全能の神・・・
嘘である。

全く、人間らしい・・・
人間より、悪い・・・

その中で、唯一、ノアに恵みを与えた。
その家族とすべての種類の動物の代表とともに洪水を免れた。

人間の滅亡とノアの救いとはかくまでも神の専断の行為である。
ライヒ

神は強力な族長のように、欲するままをなすことができた。
ライヒ

つまり、聖書を書いた者が、族長主義であったということだ。

そして、洪水後、神と人間の関係は、根本的に変化する。
それは、契約である。

その契約に、神は、再び洪水は起こさない。地を亡ぼす洪水は、起こさないという。
神は、亡ぼさないという、義務を負う。
そして、人間は、殺すなかれという、聖書における、最初の、最も基本的な戒めに縛られる。

と、突然の変更である。
散々、その神は、人殺しをしてきたのである。

神は生命の尊重という自ら犯すことのできない一つの原理にしばられる。もし人がこの原理を犯す場合には、神はこれを罰しうる。しかし人もまた、神に違反があればこれを難詰しうるのである。
ライヒ

神と、人間との新しい関係は、ソドム、ゴモラのためになしたアブラハムの弁護に明らかに、現れる。

アブラハムは、神に対して、それはかの原理に違反すると、難詰するのである。

楽園追放の物語とこの論弁とでは甚だしく異なっている。前者では人間は善悪を知ることを禁ぜられ、そして神に対する人間の位置は、従順かしからずんば罪深い不服従かにつきる。しかし後者においては、人間は善悪を知る知識をもって、正義の名において神を難詰し、そして神は譲歩しなければならない。
ライヒ

ライヒは、権威主義と、人道主義という、二つの区分けにより、考えている。
だが、ここまででも、充分に説得力がある。

聖書の物語における権威主義的要素についてのこの簡単な分析でさえ、ユダヤ的キリスト教の根底に二つの原理が、すなわち権威主義的なものと、人道主義的なものとが並存することを示すのである。
ライヒ

そして、そのとらかが、優勢になるに従って、それらの宗教の中に、それぞれ異なる傾向があらわれるという。

ユダヤ、キリスト教時代、つまり、キリスト教初期の時代は、人道的要素が大きかった。

矢張り、仏教の初期も、キリスト教の初期も、人道的要素が大きいのである。

それは、イエスの説教の精神からも、明瞭である。
仏陀も、然り。

神の国は、汝らのうちにあり・・・
そのイエスの言葉は、まさに、人道的である。

とても、簡単明瞭な表現である。

それでは、何処から、キリスト教が権威主義的宗教と化したのか・・・
キリスト教の歴史を見ると解るが・・・
今は、その問題ではない、

それは、ローマ帝国を支配する者たちの宗教になった後である。
そして、白人の宗教になってからだ。

勿論、絶えず、権威主義と、人道主義が、争っていたことは、事実である。

それはカトリックと、異教徒集団との争いであり、プロテスタント主義の内部における、様々な宗派間の争いである。

そして、その中で、両宗教、カトリック、プロテスタント共に、神秘主義思考のうちに、最も強力な表現の一つを見出したと、ライヒは、言う。

これは、とても、重大なことである。

神秘家たちには人間の力、人間の神への類似という体験が、また人間が神を要求するのと同じ程度に神は人を要求するという観念が、深く浸透していた。かれらは人間が神にかたどって造られたという言葉を、神と人間との根本的一致という意味に諒解した。恐れと服従ではなく、愛と人間自身の力の主張とが、神秘主義的体験の根底である。神は人間を制圧する力の象徴ではなく、人間自身の力の象徴である。
ライヒ

実に、有意義な分析である。

神学を超えた、神秘主義的体験により、神を押し上げたのである。
つまり、人間によって創られた、神というものに、新しい光を投じたのである。

人間自身の力の、象徴として、神の力が存在する。
それは、人間の潜在意識のことである。

この、分析により、より明確に、神仏が妄想である、という、私のこのエッセイのテーマが生きる。




posted by 天山 at 00:09| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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