2013年04月08日

神仏は妄想である。406

縄文時代の、信仰について書いてきた。
勿論、当時は、信仰などという感覚ではない。
それは、自然と共生、共感して生きるというものである。

それを、私は、古道と呼ぶ。
そして、その所作にこそ、妄想ではない信仰が存在したという。

更に、現在では、考古学によって、縄文時代の人々の生活が、予想していたより優れていたという証拠が、どんどんと発見され、発表されている。

現代人が、丸裸の自然に投げ出された時、生きては行けないだろう。
それほど、自然と、隔絶された生活の中で、生きている。

それは、進化か、あるいは、退化か・・・

進化したのは、文明であり、人間は、ある種の退化をしたのである。

自然から教えられることを、知らない、覚えないという意味では、退化といえる。

さて、古道に関しては、いずれまた、触れることがあると思う。
これから、少しばかり、精神分析と、信仰、宗教について、触れたい。

心理学、精神分析から見る、宗教である。
それは、対立するものなのか・・・
あるいは、協力関係を持って、歩むものなのか・・・

宗教と信仰を、人間の一つの、特性として考えた場合に、両者は、協力関係を結ぶ。人間の心の自己実現のために、である。

エーリッヒ・フロムの、精神分析と宗教、という書籍を利用することにする。

宗教と信仰の病理を扱うのではない。
肯定的に、宗教と、信仰を考えるという意味において、フロムの言葉を、紹介する。

まず、時代背景から、人々の不安を俯瞰している。

ある日々とにとっては宗教へ立ち帰ることが答えになるが、それは信仰という積極的な行為としてではなく、堪え難い懐疑から逃避するためにほかならない。そのような人たちは信仰からではなく、安心を求めるところからこの決意をする。教会には関心がないが、人間の魂への関心は持っている現代社会の研究家は、このような段階を神経障害のもう一つの兆候であると考える。
フロム

文明生活に浸かって、生きる人々の心に起こる、不安感である。
果たして・・・このままの生活で・・・

余程、鈍感な人で無い限りは、文明生活に浸かった状態を不安に思うだろうと、考える。


伝統的な宗教へ立ち戻ることによって解決を見出そうと試みる人々は、宗教家たちによってしばしば提起される、次のような見解の影響を受けている。すなわち、われわれは宗教か、あるいは、本能的要求や物質的快楽の満足のみを求める生活かの、いずれかを選ぶべきであり、さらに、もし神を信じないとすれば、魂やその欲求を信ずる理由もーーーまた権利もーーーわれわれはもたない、という見解である。
フロム

あたかも、僧侶や牧師は魂の問題を扱う唯一の職業的集団であって、愛、真実、および正義という理想の、唯一の代弁者であるかのようである。
フロム

これに対して、フロムは、異議を唱える。
哲学があり、倫理学があり、心理学がある、等々・・・

そして、その系譜について、論じている。

フロムの言いたいことは、
もし宗教の教義を受け容れないなら、魂の問題をもまた断念しなければならないという言葉が正しくないことを、私は・・・
精神分析家は、非宗教的な象徴体系の背後にある人間の現実と同じく、宗教の背後にある人間の現実をも研究する立場にある。・・・
人が宗教に立ち戻って神を信ずるかどうかということではなく、人が愛に生き、真実に考えるかどうかにあることを知っている。もし人がそのように生きているならば、かれの用いる象徴体系は副次的な意味をしかもたない。しかしもしかれがそのように生きていないならば、それはもともとなんらの意味をも持たない。
フロム

このエッセイは、神仏は妄想である、という、題をつけて書いている。

フロムの、宗教の背後にある人間の現実をも研究する、という言葉は、そのまま、神仏は妄想である、の、テーマでもある。

人が愛に生き、真実に考える・・・
それが、問題である。

それは、宗教の問題ではない。
個々人の問題である。

神を信ずる以前の問題なのである。

宗教は、その一つの手段と考えてもいい。
勿論、フロムは、神を信ずるという方針ではあるが・・・
後に、権威主義的形態の宗教を廃して、人道的宗教の必要性を訴えている。

集団の問題ではなく、個々人の問題であるということが、テーマである。

それは、人間が真に理性をして、独立性を獲得し、宗教の問題は、人間における、愛と自由とを発展させるところにあるという目的になる。

とすると、伝統宗教は、それに耐えられるか。

帰依するとは、理性も神仏にお任せして、ただ、その安心の上に立って生きるということになりそうである。
信仰とは、一種の知性と、理性を捨てる行為に、堕落する。

何せ、神に委ねる、仏の家に身を投げ入れるというのである。
そこに、独立性を見出せるか。
信仰が深くなればなるほど、頑固頑迷になり、果ては、孤立してゆく信仰の過程がある。そして、辛うじて、その集団の中では、孤立していないと、幻想を抱くのである。



posted by 天山 at 00:07| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。