2013年04月01日

天皇陛下について147

称光天皇の後に即位されたのが、第百二代後花園天皇である。
1428年から1464年。

ご時世は、足利義教、義勝、義政の将軍時代である。

その間の寛正年間に、疫病が流行り、飢饉が襲う。
だが、将軍義政は、何処吹く風である。

宴遊に耽り、土木工事を起こし、その費用は庶民から徴収する。

天皇が、御製詩を下されて、戒められた。
残民争いて採る首陽の蕨
ところどころいおりを閉じ
竹扉をとざす
詩興の吟はたけなわなり
春二月、満城の紅緑誰がために肥えたる

詩歌の興もうかばない、悲歌は巷に満ちている。
京中の死者、八万余人である。
満都の花は先匂う。
だが、それを誰が見るというのか。

痛烈な天皇の批判に対して、さすがの義政も、一時ではあるが、態度を改めた。

そのご在位の御製歌は、二千首を超える。

くもらじな 天つ日嗣の いやつぎに 守りきにける 神の御国は

よろづ民 憂へなかれと 朝ごとに 祈る心を 神やうくらむ

すましえぬ 我がみなかみを 恥づるぞよ 濁るうき世の 人の心を

春宮、後の後土御門天皇に贈らせ給へる御文、というものがある。

ご進退などは、いかにも静かに重くあることが大切
宮のお声は、どうもきふきふ「汲々」と聞える。のどかに、柔らかにいわれたようがよい
幼きときは別として、今はご成人である。どうか御身を謹まれ、世のあざけりを受けぬようにたしなまれることが大切です
学問が大切。これあるゆえに、ご自身の過ちも改められる。他人のよしあしを正すことも出来ます
近頃、小鳥など集めてお楽しみのようだが、これもまたいけない。そんな無用なことに心を移していると、肝腎な時に、上滑りしてしまうもの
このようなことを、くだくだというと、さだめて心外な、と思われようが、私が申さなければ、誰がいってくれようか
仏籍、漢籍にも、親の命には背かぬが孝行という。どうか以上のことを、ないがしろにしないように

和歌一首
あはれしれ 今はよはひも 老の鶴の 雲井にたえず 子をおもふ声

天皇譲位の時、46歳。
第百三代後土御門天皇即位。1464年から1500年。

それから、二年半後、応仁の乱が起こる。

天皇が、28歳の時である。
一月十八日、畠山義就、同政長を破る。天皇・上皇室町第に幸し給う
大日本史

ここで、武人の擁するところとなり、以降、諸大礼、四方拝以下の年中行事などは、一つとして、挙げ給うことなく、朝廷の威厳は、地に落ちる。

応仁の乱後は、世の中が、乱れに乱れた。
下克上である。

守護代大名が、その家来の守護代に、守護代は、またその家来に、滅ぼされるという。

守護大名の家来から、戦国大名になった者は、越後の上杉、尾張の織田、越前の朝倉、安芸の毛利など。

守護大名がそのまま、戦国大名になった者は、薩摩の島津、駿河の今川、甲斐の武田など。
浪人から名高いのは、相模の北条、美濃の、斉藤道三など。

関白一条兼良以下、公爵百官は、諸国に逃れた。

天皇は、上皇と共に、室町泉殿の一室に、十数の朝臣と幽居に近い暮らしをされる。

だが、九年後の文明8年、ここも兵火に襲われ、朝廷の記録、書籍から、日用品にいたるまで、灰になったのである。

この時、義政の小川第に行幸され、翌日、北小路第に、お移りになられた。

朝臣は、剣を腰につけ、その中を、神器が、裸同然で担われていった。

あるとき、両軍の兵が行宮の傍で戦い、流れ矢が、玉座まで飛び込む。
将軍の義尚が、
こちらには、玉座がおわす
と、たまりかね、飛び出して、大声で言うほどである。

戦火収まり、文明11年、1479年。
土御門内裏にお戻りになられた。
行宮を転々とすること、13年である。

流転の最中、文明七年に、四方拝の儀式を行われている。
翌年、そして十年、十二年に至り、土御門内裏で、四方拝が行われた。

中世から近世まで、朝儀は厳粛に行われてきた。
それが、朝廷の権威を高めたのである。

天皇は、朝儀の再興に情熱を燃やす。

まつりごと その古に のこりなく たちこそかへれ 百敷の中

神代より いまに絶えせず 伝えおく 三種のたから 守らざらめや

明応9年、1500年、土御門天皇崩御。




posted by 天山 at 00:06| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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