2013年03月07日

天皇陛下について145

ときに、延元元年、十二月下旬である。1336年。

京都の南方に当たる、吉野朝廷と、尊氏がほしいままに奉じて、政治を執った北の京都朝廷ができた。

公方方の吉野、武家方の京都との、並立である。

57年間、日本全国は、至る所、二派に分かれ、南北いずれかに属して、勢力を争うのである。

南朝の皇居は、吉野の賀名生、摂津の住吉、山城の男山、河内の東条、天野などにも、移る。

57年間、吉野の天皇中心の政治に戻そうとする南朝と、京都の武家中心の政治を進める北朝との戦が続いた。
次第に、北朝が強くなる。

その最初の、後醍醐天皇、吉野遷幸後、二年の間に、南朝方では、尊良親王の自決、尊氏、直義兄弟による、恒良親王、成良親王の毒殺が、そして、北畠顕家、新田義貞の戦死、内大臣吉田定房らの死である。

北朝方では、延元三年、八月尊氏を、征夷大将軍に補していた。
尊氏は、京都に幕府を開き、再び武家政治をはじめるのである。

翌年、延元四年、後醍醐天皇崩御される。
即日、義良親王が、せんそ、される。
第九十七代後村上天皇である。

その村上天皇は、南風競わず、という情勢が続いてゆく。

だが、楠木正成の一子、正行が、俄然頭角を現す。

正平二年、1347年。
兵を出し、紀伊の隅田城を攻めた。
京都では、驚き、即座に兵を向けた。

だが、正行は、紀伊から軍を返し、河内の藤井寺付近で、幕府軍を破る。

幕府からは、援軍が来る。
総勢、六千の軍。
正行軍は、二千である。

11月26日、早朝、正行軍は、奇襲をかけた。
大和川の北側である。

この時、幕府軍は、渡辺の橋からせき落とされ、流れたもの五百余人。
正行は、それをすべて救い上げさせた。
手当てをして、釈放する。

後に、正行が、四条畷で戦った際に、この五百余名が正行軍に属して、いずれも討死している。

その年の暮れ、幕府方は、八万の軍を河内の官軍根拠地を覆そうと、動員した。

正行は、最期の時を感じた。
一族郎党、百四十三人が、吉野の皇居へ。

後村上天皇は、
正行は、わが股肱ぞ、慎んで命を全うして欲しい・・・
と、仰せられた。

一同は、感涙に咽びつつ、先帝の陵に参拝した。
そして、歌詠みをする。

返らじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる

明けて、正平三年、1348年。正月。
幕府軍二万に、正行軍二千が、四条畷で決戦である。

一族郎党が、ことごとく刃に伏した。

その、25日、天皇は、三種の神器を奉じて、険しい山坂を越え、吉野から、西南方、穴生、あのう、の山中へ、難を遁れた。

幕府軍は、吉野を攻めたが、誰もいない。

穴生の行宮、あんぐう、をも犯すが、逆に官軍に叩かれた。

一年半以上も、攻防が繰り返されたという。

やがて、幕府軍の内紛が始まる。
更に、尊氏、直義の兄弟の対立も激化した。

彼らは、互いに、南朝と結び、相手を倒そうとした。
それが、度重なる、和議に発展する。

正平六年、尊氏と直義の対立は、決定的となった。
直義は、京を脱出し、東国へ。

尊氏は、直義と対決するため、南朝との和睦を考える。

それが成立したのが、正平三年、10月24日である。
これで尊氏は、直義討伐のため、京都を発つ。

そして、崇光院を廃す。
北朝三代目である。
光厳天皇の第一皇子である。

持明院統の光厳、光明、崇光の三上皇と、皇太子直仁親王は、南朝側に引き取られた。
したがって、京都の偽神器は、南朝が納め、天皇は、後村上天皇、御一人ということになる。

南朝は、和睦条件に従い、三上皇と皇太子を河内にお迎えし、更に、賀名生にお移りいただいている。

京都には、天皇がいらっしゃらないのである。

翌年、後村上天皇は、京都に還幸されようとする。
正月、27日、河内の東条に到着される。
28日、住吉へ。

風説がたった。
天皇は、京都を攻める・・・

尊氏の子、義あきらは、自衛のために兵を集める。

天皇は、しかたなく、北畠顕能、楠木正儀らを派遣され、義あきら討伐に踏み切られた。

義あきらは、七条大宮で迎え討ったが、大敗する。




posted by 天山 at 00:02| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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