2013年02月24日

タイ・ビルマ戦線

ウ号作戦、インパール作戦とは、実に無謀な計画だった。

それは、ビルマを占領していた日本軍が、防衛地域をインド東北部まで拡大する意図を持って、インド国境の要塞インパール攻略を目指したものである。

当初から、参謀本部が成功を不安視していたものである。
しかし、総指揮を執った、牟田口第十五軍司令官は、補給を軽視し、制空権が敵側にあるにも関わらず、弾薬、糧秣は敵陣から奪い取れと指示する、無謀なもの。

更に、参加した、三師団の師団長がすべて解任されるという、異常事態を生んだ。

結果は、ビルマのジャングルで、10万余の日本軍のうち、七万の死傷者を出し、戦死した三万の兵士の多くは、餓死である。

補給が途絶えた日本軍の退却は、悲惨極まりないものだった。

白骨街道、靖国街道と言われた、ビルマの道々・・・
それは、死の街道である。

中国雲南省から、ビルマ北部のカチン州を舞台にしたものから、ビルマ全域渡り、戦場と化した。

インパール作戦は、ビルマ戦線である。
そして、撤退の道は、タイへの道。
チェンマイの野戦病院を目指して、撤退した兵士の多くが、途中で斃れた。

タイ西北部は、日本兵の遺体で溢れたのである。

弓兵団インパール戦記を記した、井坂源嗣氏の文を引用する。

ビルマの野戦病院の様子である。
西に低い山々がつづき、わずかに開けた平地の道路を、今日も傷病者の群れが助け合いながら歩いている。闇の中を行軍してゆくと、やがて野戦病院の付近らしく、患者輸送の車を待つ一団が、道路近くに集まっていた。昨夜も来なかったが、今夜は来てくれるのかと待っているのだという。病舎の小屋があるのかと見回したが、暗い木立の中にはなにも見えなかった。
足元を這う二人の患者がいたので、私は声をかけた。
「どうしたんだ」
「状況が悪いので殺される。自動車が来ていませんか」
夜露にぬれながら、しばらく這ってきたのか、その兵隊は体をふせたまま苦しそうに、泥にまみれた手で顔をおおって泣いていた。いくら何でもそんなことが、病院で動けない者を殺すなんて、あるわけがないと思った。
しかし、病院を閉鎖する直前に、動けない患者を注射で死なせ、残りの者には手榴弾をくばって、自爆をすすめたというモーレ野戦病院のうわさを聞けば、本当かもしれないと、ぞっとした。それがここでも行われているのだろうか。
患者の悲憤の涙、だれにすがることもならず、死ぬ一瞬までひとり煩悶する兵士たち。彼らの胸中を思うと涙がでてくる。第一線同士の傷つき病んだ二人の戦友に、
「きっと迎えがくるよ。自分らは命令で急がなければならないが、至急もどってくるんだよ。力を落とさないでがんばれよな」
力づけたつもりだが、何もしてやれずに別れる弁解だったかも知れない。

そして、先を進む。

死骸の状態はそれぞれ異なっていたが、悪臭はおなじで、気分が悪くなる。彼らは背嚢と兵器は持たないが、軍服を着て、頭蓋骨が戦闘帽をかぶり、足の骨が靴をはく。大きな目の穴、小さい鼻の穴、白い歯のならぶ口。そのとなりでは口や目から蛆があふれ出て、地面にうごめいている。この世のものとは思えない光景がしばらくつづく。

息絶えたばかりの苦しそうな顔、憤怒の形相にはさもあろうと思い、眠るがごとき安心した顔には、われわれも心がやすまる思いがした。

だが、いったい、これらはどこまで続くのか。やぶれた襦袢の腹から、傷から落ちこぼれる蛆虫。汚れた軍服と対照的な白い蛆が、兵隊の肉を食べていた。われわれは休憩したくとも場所がない、いまさらに驚く死体の数、負け戦とはあまりにも悲惨だ。親兄弟が、妻や子が、恋人がこれを見たらどう思うだろう。

これからも果てしなくつづく戦闘に、ふるえるであろう亡き数に入る兵士たち。その独りが自分でもあるのだ。

銃床をにぎる手がしびれるほどに力が入る。死んだ兵隊も残念だろうが、生きている自分のゆくすえを思うと、無念の涙で狭い道がかすんでしまう。ビルマ鳥が不気味に鳴いて飛んでいった。
井坂源嗣

その長い道のりを、靖国の社で家族、戦友に会えると信じて疑わなかった亡き兵士たちにかわって、生き残った戦友が、靖国街道と名づけたのである。

更に、タイに続く道を、白骨街道と呼ぶ。

私は、今回、チェンマイ市内、ウァライ通りにある、ムーサン寺に出掛けた。
そこは、野戦病院跡である。

撤退の兵士たちは、この野戦病院を目指した。
だが、その寺から、ビルマ国境にかけて、広く日本兵の遺骨が散らばる。

更には、迷って、タイ北部のビルマ国境の町まで続く。

ビルマから出たが、タイの山川で死ぬ兵士たち・・・

いつしか、タイ・ビルマ戦線と呼ばれるようになる。

ここで、もう一つ、重大なことがある。
それは、日本兵だけではないということだ。

クーリーという、荷物運びで借り出された人々は、中国人、タイ人たちである。
その数は、日本兵より、多いという。
つまり、彼らも、死んだのである。

チェンマイから、西のメーホーンソーン、クン・ユアムの山中、川沿いには、日本兵やタイ人たちの遺骨が散らばる。

そこにも、一度、慰霊に出掛けているが・・・
再度、出掛けたいと思っている。

激戦地跡は、どこも同じであるが・・・
ビルマ全土を舞台にした激戦地である。

敗戦から、68年を迎える今年。
忘却の彼方に・・・しては、いけない。
彼らの死が、無駄ではなかったこと。
それは、現在に生きる者の務めである。

その意味を 問いかけて問う 花の色 亡き兵士たち 重い命を
                          天山



posted by 天山 at 00:01| タイ・ビルマ戦線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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