2013年02月20日

国を愛して何が悪い51

1918年の軍事的敗北に引き続くドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー二重帝国の解体は、ヨーロッパに巨大な革命の奔流をともなう政治的地震現象を引き起こした。ボリシェヴィキが言葉だけのプロパガンダは別として、何らか具体的なイニシアティブをとる以前に、革命はドイツとオーストリア・ハンガリーの敗北の延長戦上に自然発生的に起こるように思われていた。
共産主義黒書

ボリシェヴィキ党、つまり、レーニンである。

ドイツ、ベルリンでは、1918年、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトがスパルタクス団の要領を発表したが、このグループは、数日後に、独立社会民主党を去り、他の組織と共に、ドイツ共産党を創設した。

ハンガリーも、レーニンの革命を輸入しえた、最初の国となった。

それから、仔細は略すが、レーニンは、社会民主主義者と、プチ・ブルジョワを銃殺するように勧告した。

レーニンは、
このプロレタリアート独裁は、搾取者、資本家、大地主とその手先の抵抗を粉砕するために、迅速で断固とした容赦ない暴力の行使を前提とする。このことを理解しない者は誰も革命家ではない。
と、テロルの力を借りることを、正当化する。

それから、延々と、暴力と、処刑、拷問・・・のお話である。

プロレタリアート独裁の神聖な大義のために生命を捨てたくないというなら、彼らを皆殺しにせよ・・・

神聖な大義・・・

第一次大戦後の、ヨーロッパを舞台に、共産主義の実行がなされたのである。

つまり、
コミンテルンの創立大会は、現実的な組織能力に応えたものというより、緊急なプロパガンダ上の必要性と、ヨーロッパを震撼させていた自然発生的な諸運動をひきつけようという試みとに応えたものであった。
共産主義黒書

その真の創立は、1920年夏の第二大会での、21か条の加盟条件採用の時点だった。

「世界革命の参謀本部」
それに加わろうとする、社会主義者は、これらの加盟条件に従わなければならないことになる。

コミンテルンは、レーニンが国際的な秩序を転覆させる道具の一つとして、構想したものである。

その他の道具には、赤軍、外交、スパイ活動などがある。

第二回大会の宣言である。
共産主義インターナショナルは、蜂起とプロレタリア独裁のための国際党である。

21条件の第三は、
ヨーロッパとアメリカのほとんどすべての国において、階級闘争は内戦期に入っている。この状況のもとでは、共産主義者はブルジョワ的合法性を信頼することはできない。合法的組織と並行して、決定的瞬間に革命への義務を果たしうる非公然機関をいたるところにつくることは彼らの義務である。

決定的瞬間とは、革命の蜂起であり、革命の義務とは、内戦に突入する義務のことである。

第十二番目は、
現在の激しい内戦期にあっては、共産党は最も中央集権的に組織されていなければ、軍事規律に近い鉄の規律が認められていなければ、その中央機関が広範な権力を有し、不動の権威を行使し、党員の全会一致の信頼を得ていなければ、その役割を果たすことはできないであろう。
そして、全会一致のなり得ない場合を考慮して、
共産諸党は・・・私心のある、ないしプチ・ブルジョワ的分子を遠ざけるために、組織の定期的粛清を行わなければならない。

宗教のカルトと呼ばれる組織に似て、徹底した管理下の元に置くということである。

共産党はプロレタリアートの最も広範な層にたいし、事実と言葉をもって、一切の経済的ないし政治的紛争は、幸運な状況に助けられた場合、内戦へと変化しうるし、その過程で政治権力を獲得するのはプロレタリアートの任務であろうという考え方を植え付けなければならない。

読み進めると、反吐が出る。

破壊、内戦・・・

そして、最期は、独裁的支配なのである。

ドイツ、エストニア、ブルガリア・・・
共産党テロリストが、暗躍する。
イスラム原理主義者の、テロリストが、現在世界的に活動するが・・・
それ以前に、共産党テロリストの活動があるということ。

だが、ヨーロッパでは、それらが、失敗に終わる。
性急な暴力行為は、排除される。

ところが、中国では、違った。
コミンテルンは、スターリンに促されて、新しい戦場を発見したのである。

その頃の、中国は無秩序の只中にあり、内戦と社会紛争に引き裂かれていた。
そして、反帝国主義革命の機運が熟していた。

1921年、東方労働者共産主義大学が、創立される。
そして、25年、孫逸記念中国勤労者大学へと結集される。

コミンテルンの責任者たちと、ソビエト各部局によって、指導されていた中国共産党は、まだ、毛沢東の指導を受け入れていない。

毛沢東は、国民党の若きリーダー蒋介石との緊密な同盟関係へと、向かっていた。

共産党の選んだ戦術は、国民党を包囲して、それを一種のトロイの馬に仕立て上げることであった。

コミンテルンの密使は、国民党の顧問の役割を占めるまでなった。

ソ連との協力政策を完全に支持していた、国民党左派は、1925年に、党指導部を掌握することに成功した。

そして、共産主義者は、プロパガンダを強化し、社会的興奮状態を促し、その影響力を強めた。
ついに、国民党の第二回大会を支配するまでになる。

だが、蒋介石は、その影響力の拡大に、危惧を抱くようになる。

共産主義者が、彼を権力から、遠ざけようとしていることを、見抜いたのだ。

そこで、先手を取って、1926年3月12日、厳戒令を敷き、共産党分子と、ソビエト軍事顧問までも、逮捕させた。

数日後、全員釈放されるが、党内での、左派の指導者を左遷し、共産主義者の特権と、行動を制限する八項目の協定を押し付けた。

以後、蒋介石は、民族主義、国民党軍隊の確実な指導者となるのである。




posted by 天山 at 00:03| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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