更に、その後は、トルコのオスマン帝国の支配を受けた。
そして、ようやく、東洋からの侵略を撃退することができたが、次は、西洋からの、侵略である。
ポーランド、スウェーデンからが、モスクワを占領している。
だが、それを救ったのは、冬である。
ここで、清水馨八郎は、地理は歴史の母である、という、明言を言う。
まさに、その通りであろう。地理は、歴史を作るのである。
今では、地政学と言われて、無視することが出来ないことである。
1480年、イワン三世は、ハン国から独立する。
そして、ビザンチンの後継者、東方教会、つまり、ギリシャ正教の擁護を持って任じ、専制君主制を作り上げた。
ロシアの前進である。
その孫、イワン四世は、古い貴族勢力を抑え、中小貴族、商人たちの支持を得て、コサックの活躍で、領土もシベリアを加えて、絶対主義の基礎を固めた。
1547年から、皇帝の称号を正式に用いて、君臨する。
その後、1613年、ミハエル・ロマノフが即位すると、ポーランド、スウェーデンなどの干渉を排して、国内を平定させ、ロマノフ朝を開いた。
以後、ロシアは、1917年のロシア革命まで、皇帝、ツァーリを核心とする、絶対主義の国家として、発展した。
共産革命後も、絶対主義が自然移行したのは、ロシアには、絶対主義を受け入れる素地があるからである。
ロシアの近代化は、ピュートル一世の、1682年から始まった。
国民に、兵役の義務を課し、黒海艦隊と、バルチック艦隊を創設し、コサック騎兵隊を用いて、周辺諸地域を侵略する。
それから、ロシアの侵略国家としての、アイディンティティが、出来上がるのである。
南下政策が、ピュートル以来の、ロシアの伝統的国家目標となるのだ。
1700年からの北方戦争で、スウェーデンを破り、ポーランドにも、優越する地位を獲得し、バルト海の覇権を握る。
南方では、トルコと戦い、ドン川河口を収奪する。
東方のシベリア進出は、1706年、カムチャッカ半島を占領し、ロシアの版図は、太平洋まで広がる。
中国とは、1698年、ネルチンスク条約を結び、外興安嶺を国境と定めた。
更に、アヘン戦争で敗北した清の弱みに付け込み、黒竜江以北の地を、分割させた。
その二年後には、清と北京条約を結び、ウスリー川以東の沿岸州を譲り受ける。
更に、ウラジオストックに港を建設し、日本や朝鮮の脅威となるのである。
日本側から見ると、幕末に、三方からの、侵略勢力と対峙することになるのである。
西欧列強は、直接的に日本に手をかけることはなかったが、中国、満州へと勢力を伸ばした。
日本を取り巻く、状態が緊張の度を高める。
そこで起こったのが、日清、日露戦争である。
その勝利は、極東の国である、日本が、世界に注目された、世界史上の大事件であった。
更に、国際的には、非白人民族を感激、興起させたのである。
この戦争が、世界史の流れを変えることになる。
さて、清は、アヘン戦争に負けて、西側からの列強の分割に屈した。
そして、朝鮮は、寝惚けていた。
清は、朝鮮の内乱に付け込み、軍を進めて支配を強化する。何故か。朝鮮は、清の属国であるからという、意識だ。
日本にとり、朝鮮は、国家防衛の生命線ともいえる、位置にある。
だから、朝鮮を独立させるために、日清戦争を起こしたのである。
戦争は、予想以上の連戦連勝であった。
1895年、下関講和条約が結ばれる。
その内容は、朝鮮の独立を認める、遼東半島、台湾、ショウコ島を日本に譲る、賠償金、三億円を支払う、である。
しかし、その六日後に、満州進出に野望を持つ、ロシアが、ドイツ、フランスと組んで、遼東半島を清に返還するように迫る。
三国干渉である。
当時の日本は、三国と戦う力なく、止む無く、返還することにしたのである。
そして、ロシアは、即座に、遼東半島を清から譲り受けて、旅順に大要塞を築いた。
ロシアの厚かましさは、それ以前からあったが、それは、目に見えて、酷いものだった。
そして、列強の中国進出は、一段と激しくなった。
山東省をドイツに、威海衛をイギリスに、広州湾は、フランスに租借されて、中国は、ズタズタに分割されたのである。
だが、1900年、中国民権運動を刺激したゆえに、扶清滅洋を掲げる、義和団の運動が起こる。
列強は、居留民を守るため、軍隊を派遣し、北清変事となる。
ところが、鎮圧されても、ロシア軍は満州に居座る。そして、朝鮮に勢力を伸ばすのである。
日本は、ロシアに対抗するために、日英同盟を結び、朝鮮半島を救うために、ロシアに宣戦布告した。
1904年である。
この日露戦争こそ、世界史を変える原動力になる。
更に、唯一、有色人種である国が、国際連盟に加入するという。
日本の存在がなければ、朝鮮は今頃、どうなっていたのか。
ロシアの一部、あるいは、中国か・・・