2013年01月05日

ミャンマー難民孤児に逢う7

メーソートでの慰霊は、中野さんの御宅と、自由戦士の碑の前で行った。

自由戦士の碑は、四名の日本人青年が、ミャンマー国軍と対決したカレン族の加勢をして、亡くなった方々である。
皆、三十代前半である。

その名前が刻まれた、慰霊碑である。

案内のHさんが、その人たちをよく知っていた。
矢張り、亡くなった際に、部屋を訪ねて来たと言う。
不思議でも、何でもない。有り得ることである。

実は、最初に慰霊をした時の写真に、大きな丸い光の輪が写っていたので、気になっていた。
今回が、四度目の慰霊であるから、それは、消えていると思う。

だから、あえて、Hさんと共に、写真を撮った。

一人だけ、攻撃を受けて、暫く、苦しんで亡くなったと言う。
一度、ミャンマー側に埋葬されたが、遺族が来て掘り起こし、再度火葬して、日本に持ち帰ったという。
だが、霊位は、そこにいる。

出来るだけ、大袈裟ではなく、黙祷を主にして、祈る。

私は、花も、線香なども、使わない。
ただ、思いの祈りだけである。

以前は、その戦いの現場を見渡せる場所でも、慰霊を行った。
それは、国境の川である。

今回は、慰霊碑だけである。

その苦しみから解放されて、自由な世界にお戻りいただくように、願った。

それが、終わり、すべての活動が終わると、三時間以上を経ていた。
昼の時間である。
いつものように、皆で、食事をすることにした。

その店に着いた時は、もう、昼を過ぎていた。
総勢、五名で食事をする。

疲れているので、あまり食べられないが・・・
皆さんと、食事をするのは、楽しい。

Hさんの、お勧めの中華料理の店である。
中華料理は、皆で食べられるので、丁度よい。

日本語、タイ語、英語交じりの話しである。
Hさんの、上のお嬢さんは、フランス語が出来るが、誰もフランス語が出来ないので、タイ語のみである。
下のお嬢さんは、日本語が少し出来る。
大学も、日本語学科に進むという。

運転をしてくれた、中野さんのお孫さんは、タイ語のみ。
ハチモト君と呼ぶ。

一時間を過ごして、私たちは、ホテルに送って貰った。
どっと、疲れが出た。
シャワーを浴びて、暫し、ベッドで横になる。

そして、もう夜の食事が出来ないほど食べたと、夕食は、とらないことにした。

翌日は、バンコクに戻り、そのまま、パタヤに向かう。
丁度、12時発の飛行機である。

明日は、中野さんの息子さん、ハチモト君のお父さんが、送迎してくれるという。

朝、10:30に出ることにした。
二泊の短い滞在であるが、十分充実した活動が出来た。

そして、これが、今年最後になる。

どこに出掛ける元気もなく、飲み物だけを、コータにコンビ二で買って貰った。
糖分が欲しくなるので、コーラーを頼む。

そして、横浜の支部、副代表の辻さんに電話をして、活動報告をする。
それを、辻さんが、自分のホームページに書いてくれる段取りである。

私は、旅の間、一切インターネットをしないことにしていた。
本も読まない。
何もしない。

活動以外は、何もしないことにしていた。

近くの市場には、二度ほど出たが、あまり買う物も無かった。
ただ、茹でたとうきびを買った。

タイでは、今時期日本には無い、果物を多く食べる。
スイカ、パイン、パパイヤ、マンゴーなどである。

道端で、切り売りのものを買う。
その分量が丁度良い。

切り売りの果物売りは、衛生的に問題ないのである。
氷をぎっしり詰めたケースに入れている。
大量に買っても食べられないので、丁度良い分量である。

私は、熟したものが好きで、時々、常温のまま、放って置く。
すると、甘みが増して美味しい。

何せ、腐る直前が好きなのである。

こうして、メーソートでの、時間が過ぎる。

パタヤでは、四泊の予定である。
パタヤには、出掛けて、七年が過ぎる。
知り合いも、増えた。そして、楽しいのである。
だが、観光ではない。
ゲストハウスに泊まり、更に、屋台か市場で食事をする。
大金を使うこともない。




posted by 天山 at 06:13| ミャンマー難民孤児に逢う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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